鬼無里村
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鬼無里村(きなさむら)は、長野県上水内郡にあった村。 平成の大合併により、2005年からは長野市鬼無里地区になっている。 紅葉伝説や木曾義仲に因む伝承を残し、伝説にちなむ「東京(ひがしきょう)」「西京(にしきょう)」などの集落がある。奥裾花渓谷(日本百景)やミズバショウ大群落の奥裾花自然園(日本の秘境100選)も著名。最盛期には、人口が6000人ほどあったが、廃止当時は、2000人ほどまでに落ち込み、過疎地域に指定されていた。
- ^ 旧鬼無里村役場や長野県の一部の公文書では小川川と称している
- ^ 長野市過疎地域自立促進計画案(平成22年度〜平成27年度) - ウェイバックマシン(2011年10月20日アーカイブ分) - pdf (330KB)
- ^ a b c 谷川 2015, p. 120.
- ^ 平成12〜16年度鬼無里村過疎地域自立促進計画書
- ^ 長野市・大岡村・戸隠村・鬼無里村任意合併協議会 会議資料[1] (PDF) による。
- ^ 「鬼無里村史」
- ^ 同上。
- ^ 付近には過去にも地すべりをおこした形跡があった。1919年(大正8年)から1955年(昭和30年)の鬼無里の4月の平均気温は約8度だが、この年は4月8日に最高気温22度に達し、大量の融雪水が地盤に浸透した。これに加えて15日から18日には降雨があり、これらが誘因とされる。
- ^ 県道高府信濃線。現在の県道36号信濃信州新線はこの地すべり地帯を迂回して大洞峠を越える。
- ^ 防災科学技術研究所HP [2][3] (PDF) - pdf (2.74MB)
- ^ 独立行政法人土木研究所 過去の深層崩壊事例について
- ^ 国土交通省HP 大規模な河道閉塞(天然ダム)の危機管理のあり方について[4] (PDF)
- ^ 国土交通省 国土技術政策総合研究所 大規模土砂災害の対応について [5] (PDF) - pdf (2.43MB)
- ^ 国勢調査による
- ^ 平成17年1月1日時点での住民基本台帳による。
- ^ 鬼無里村HP、新しい村づくり研究会会議録より
- ^ 長野市内には村民の通学のため公営の鬼無里寮が設けられていた。同寮は平成19年に老朽化を理由に閉鎖された。
- ^ 2004年(平成16年)の統計ではニホンザルによる農業被害額は約180万円、クマによるものは約33万円となっている。統計外の被害についても言及されている。
- ^ 2000年の世界農林業センサス及び国勢調査による。
- ^ 長野市過疎地域自立促進計画案(平成22年度 - 平成27年度)による。
- ^ 鬼無里村公式HPより
- ^ 広報鬼無里2002年10月号「お医者さんがやって来た!」 - ウェイバックマシン(2021年5月7日アーカイブ分)鬼無里村診療所開設にあたって アーカイブ 2021年5月7日 - ウェイバックマシン鬼無里診療所フォトギャラリー - ウェイバックマシン(2021年5月7日アーカイブ分)
- ^ 2000年(平成12年)の長野県患者調査によると、旧鬼無里村の医療サービス受益者のうち79%は長野市内へ出向いていた。
- ^ “へき地等一覧” (pdf). 長野県へき地保健医療協議会の開催. 長野県庁 (2017年12月15日). 2023年5月5日閲覧。
- ^ 『日本書紀』や『釈日本紀』によると、天武天皇は壬申の乱を制して即位したが、このとき科野国(信濃国)の兵は天武天皇側に従軍し功を挙げた。天武天皇は新都・副都の建造の調査のため、683年(天武12)に三野王(美濃王)、小錦下釆女臣筑羅らを信濃国へ派遣した。翌年には信濃国の地図が奏上され、685年(天武14年)10月には詔により「束間温湯」に行宮が造営された。詔は天武天皇の罹病後まもなくで発せられており、行宮は湯治のためだったと考えられている。天皇はそのまま崩御し、行幸は実現しなかった。
- ^ 束間温湯がどこを指すかは諸説あり定まらないが、一般には束間は筑摩を指し、美ヶ原温泉(松本市)や浅間温泉(松本市)が当該地とされる。
- ^ 『紅葉狩』では配流先は戸隠とされる。
- ^ 『紅葉狩』では平将門の残党。
- ^ 残りの2つは亀岡文殊(山形県)、切戸文殊(京都府)とされる。ただし、現在はこの2つに安倍文殊(奈良県)を加えたものを日本三文殊とするのが一般的である。
- ^ 『信濃奇勝録』(1834年)に崩落前の様子が紹介されている。
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