平井頼母とは? わかりやすく解説

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平井頼母

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 08:09 UTC 版)

 
平井頼母
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正13年3月29日
別名 七郎左衛門・定則(大和守)
戒名 白光了雲信士
墓所 岐阜県恵那市明智町吉良見
主君 武田信玄織田信長森長可森忠政
氏族 平井氏(藤原南家または甲斐源氏)
父母 平井光行(宮内少輔)
源之進・長太夫・十平・光頼(岡之助)・助五郎・浅野十左衛門の室・松姫(遠山友政室)
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平井 頼母(ひらい たのも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将美濃国土岐郡高山城主。

出自

平井氏の出自については三つの説がある。

第一の説は、播磨国揖保郡の平井郷[1]を発祥とし、老人物語は、頼母は播磨から来たと記述している。

明応5年(1495年)に赤松政秀が築城した平位(平井)城は、当初は赤松氏の城であったが、その4年後には赤松氏の庶流[2]の平井氏が城を守るようになったと伝えられている。平井城は、龍野古城が築かれる前の「元祖龍野城」とも言える存在であった。鎌倉時代には「平位」とも書かれている。

平井城の終末期の城主は平井備中守貞利であった。彼は龍野赤松氏4代城主の赤松広英に仕えたが、主家が但馬国竹田城に移封されると従っている。しかし関ヶ原の戦後に、赤松広英が徳川家康の怒りに触れて自害に追い込まれると、貞利は故郷の龍野に戻った。

その後、貞利は武士を捨て、醸造業を開業して「石橋屋」を営んだ。この頃、龍野赤松家の家臣の中には、武士を辞めて醸造業を始めた者が多かった。

第ニの説は、地下家の平井氏で、三宝院門跡坊官・朝廷の宮内卿の家柄とされる。

同時期に加茂郡の加治田城に加治田平井家が存在し、平井信正が平井宮内とも称していたが、頼母の父の平井光行も、平井宮内少輔とも称していたことから同族ではないかと考えられる。

第三の説は、甲斐源氏武田氏の庶流で、甲斐国八代郡上平井村(現在の山梨県笛吹市石和町上平井)を発祥とする一族とする。

光行・頼母父子は、信濃国諏訪郡境村に移住した後、伊那郡に転住した平井家・平井出家の系統で、家紋は三ッ花菱・三ッ梶葉に鷹羽の打違い・三ッ柏を使用した平井氏の支流とされる。

経歴

天文21年(1552年)美濃高山城主の高山光俊(伊賀守)が没したが、子が無かったため後継する城主が居ない状態となった。

早速、美濃国可児郡御嵩城主の小栗重則(信濃守)が高山城を攻めて占領しようとした。

そのことを知った肥田民部から岩村城主の遠山景前に連絡があったので、景前は甲斐の武田信玄に早馬を送り相談した。

信玄は平井頼母と後藤庄助を大将として、遠山三郎兵衛・遠山左衛門佐・遠山景行小里光忠(出羽守)・その子の小里光明(内作)・小里助左衛門・小里右衛門太郎らを高山城へ向かわせた。

小栗重則(信濃守)も千人余で大富山に陣を取り川端に押し寄せた。

平井・後藤・遠山・小里らは浅野村に陣を取り川を隔てて矢を射かけた。

小栗は川を渡って戦い高山城に迫ったが小里親子と遠山景行の30余騎が馬上から鑓を執って真直ぐに進むと小栗勢が敗北したので川を越えて追った。

大富山の下で小里出羽守が小栗の長臣を討取ると小栗は引き返したので、肥田村の天福寺の高根で70余りの首実検を行った。

その後、逆に御嵩城は囲まれ落城し小栗重則は自害したという。その結果、御嵩城までが武田氏の勢力下に入ったが、後藤庄助は討死した。

弘治2年(1556年) 平井光行・頼母父子は武田信玄に高山城を与えられ城主となった[3]

元亀元年(1570年) 秋山虎繁が率いる武田勢が、美濃恵那郡の上村に侵入し、奥三河へ進もうとした際に、父の平井光行は遠山・徳川方として上村合戦に参戦したが敗北し、武田方の捕虜となったとの言い伝えがあるが、その後の消息が不明なため、裏切り者として処刑された可能性が高いと考えられる。

天正2年(1574年)2月2日、武田勝頼の軍勢が高山城を攻めた際には、兵700人にて守備したが落城し頼母は逃亡した[4]

天正3年(1575年) 織田信長は、武田勢が占領した岩村城からの防衛のため、高山城に森長可を差し置き、頼母は兵700余人で備えた[5]

天正3年(1575年)と共に森長可の組下として高遠城を攻めた。この時の鰐口が、長野県伊那市高遠町遠照寺に残っている。

天正8年(1580年) 頼母は次女の松姫を苗木城主の遠山友政に嫁がせた。

天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も混乱した。

当時、北信濃海津城主となっていた森長可は、高井郡水内郡更級郡埴科郡の所領を放棄して美濃金山城へ撤退しようとした。

しかし、平井頼母、木曾義昌遠山友忠(久兵衛)、肥田忠政(玄蕃)、久々利頼興(土岐三河守)は、森長可の美濃への帰国を喜ばず、

遠山友忠(久兵衛)は、義昌と相談し、長可の帰路を捕らえ、木曽福島で暗殺することを計画し、もし不成功に終わったら恵那郡の千旦林村で決戦することを企てた。

海津城下で商売をしていた金山の道家彌三郎は、このことを知って、長可に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」と密告した。

そこで長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着予定日を書いた書状を木曾義昌に送ると、わざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという策略を実行した。

義昌は驚き、一礼して書院に下がり、息子の岩松丸(後の木曾義利)を給仕として茶を差し出した。

長可は茶を飲まず、養子にしたいと言って岩松丸の手を取って身柄を拘束したうえで出発した。

意表を突かれた木曾義昌は、やむなく千旦林村に伏兵していた平井頼母や遠山友忠等の長可をよく思っていなかった近隣の諸将に、岩松丸が人質として連行されたことと、既に暗殺計画は知られているので森軍に手出しをしないように懇願した。

遠山友忠は、ここまで準備していたのに撤兵するのは残念であると反対し、森長可を討つ計画を主張したが、平井頼母や肥田玄蕃に宥められて断念した。またここで義昌の恨みを受けるようになれば、後に問題が残るとして撤兵した[6]

森長可は、無事に千旦林村を通り過ぎて、大井村へ到着し、そこで人質として連れて来た岩松丸に、二人の士を付けて木曽福島城へ送り届けて、金山城へ帰った。

森長可は頼母を招いても応じなかったため、久々利城主の高木輿一郎に計略を授け、頼母に和睦を進めるからと高木の館へ招き、奥座敷で山海の珍味を馳走しつつ、兵30人で急襲し、急ぎ腹を召されよと叫んだため、頼母は切腹し首を取られ、家老の土本某、郎党達は討たれた[7]

嫡男の岡之助は、妻の間野と子供一人と伴に、土合の里[8]に身を隠したが、居場所を訴えた者があり討取られた。

妻子は尾張品野[9]へ落ち延びた。[10]というものである。

天正19年(1591年)頃に、土岐氏庶流の肥田惣右衛門は後継が居なかったため、尾張品野の永井家が養っていた頼母の末子の助五郎を養子に迎えたが、その際に惣右衛門も平井に改姓した。現在も岐阜県土岐市に子孫が在住している。

またこの件については異説がある。以下の内容は妻木頼忠(家頼)がとった行動と重複している。

天正11年(1583年)1月 森長可は、豊前市之丞を将として200人の軍勢を土岐郡に侵攻させ、頼母と妻木頼忠(家頼)を攻めた。

頼母は、森長可に叛いてもよくないであろうと考え、塞ノ神峠まで出て待ち受けていた。

森長可の軍勢が攻めてくると旗を巻き兜を脱いで降伏した[11]

頼母は金山城へ赴き、森長可の組下となり、高山与力衆は忠誠を誓い、高山城を修理して明け渡した。

天正12年(1584年)3月 小牧・長久手の戦いが勃発し、子の源之進・長太夫・十平と、高山与力衆の兵士が出陣したが、十平は討死した。

森長可も戦死したため、高山城は徳川氏家臣の石川数正に攻められて頼母は逃れ城と領地を失った。

その後豊臣秀吉織田信雄の和睦により、高山城は森忠政が取り戻し、森氏家老の林為忠が城代となった。

林為忠により謀殺されたのではないかという説がある。[12]

天正13年(1585年)3月29日没。岐阜県恵那市明智町吉良見に墓があり、現在も地元の旧家により供養されている。遺品として短槍が残されている。この地は盟友であった明知遠山氏遠山利景の領地である。

参考文献

  • 『土岐津町誌』 第三編 近世 第一章 近世への胎動 第二節 戦国の東濃 ニ 東濃の争い  p295~p301  土岐津町誌編纂委員会編  1997年
  • 『土岐津町誌』 第三編 近世 第一章 近世への胎動 第二節 戦国の東濃 高山城と城主にかかわる文献・史料 p301~p312  土岐津町誌編纂委員会編  1997年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』 第十二編  近世封建社会 第一章 安土桃山時代 ■長可 高山・妻木城を下す p411~p412 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』 第十二編  近世封建社会 第一章 安土桃山時代 ■老人物語の異説 p412~p413 土岐市史編纂委員会 1970年
  • 『妻木戦記』 第九 森武藏守 平井頼母を討つ  p10~p13  日東泉之進・芦田透 土岐郡妻木村 大正13年
  • 『美濃古戦記史考 : 六古記原文とその注釈 四、老人物語 p130・兼山城発向 付高山城没落小里・明知退立之事 p131~p141 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1969年
  • 『美濃国土岐郷「高山城」の考察 : 老人物語「東濃天正記」をもとに』 大杉緑郎 1991年
  • 『御嵩町史』第一章 中世の御嵩 第二節 南北朝・室町時代の御嵩 五 御嵩城と小栗信濃守 p223~p227  御嵩町史編さん室 1992年
  • 『中津川市史 上巻』 第四編 中世 第四章 安土・桃山時代 第五節 支配者交代 ニ 木曾氏と中津川 p646-p648 中津川市 1968年

脚注

  1. ^ 兵庫県たつの市揖西町小神字平井
  2. ^ 龍野市史 第一巻 p667
  3. ^ 濃州小里記
  4. ^ 甲陽軍鑑
  5. ^ 美濃諸舊記
  6. ^ 兼山記
  7. ^ 老人物語・東濃天正記
  8. ^ 現在の土岐市泉町
  9. ^ (愛知県瀬戸市)
  10. ^ 土岐市文書 老人物語
  11. ^ 金山記
  12. ^ 土岐津町誌 308~309P



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