贄川の砦の突破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 14:49 UTC 版)
山村良勝と千村良重は、下野国小山で東軍に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曽義利が改易された後に甲斐と信濃に潜んでいた木曽氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。塩尻にて松本城主石川康長の許にあった山村良勝の弟山村八郎右衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟山村清兵衛が馳せつけた。木曽に攻め入り8月12日に贅川の砦を守っていた犬山城主で木曽の太閤蔵入地の代官も兼務していた石川貞清の家臣、原孫右衛門・原藤左衛門の兄弟を破った。これを聞いた木曽氏の旧臣で石川康長の家臣となっていた原図書助・三尾将監長次・山村次郎右衛門が内応してきたので、良勝の軍勢はほとんど抵抗を受けることなしに木曽谷を平定して妻籠城に入り、城を修築して陣を備えて美濃へ進軍した。
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