殺害による死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 16:14 UTC 版)
詳細は「ジョン・レノンの殺害」を参照 1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生のころのネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。 フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ジョンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出かけた。 一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、ジョンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、ポールやジョージとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。 22時50分、スタジオ作業を終えたジョンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がジョンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。 警官の到着時、ジョンはまだかすかに意識があったが、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院(英語版)に搬送した。1人の警官が瀕死に陥っていたジョンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、ジョンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時すぎに死亡した。満40歳没(享年41)。ジョンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。 事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いたりしていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、"I just shot John Lennon."(ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです)と自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かってるのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。 病院でジョンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。 ジョンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放があり得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、ジョンの遺族が釈放に強く反対していること、もし釈放されたらジョンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2022年現在も服役中である。 この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。イギリス、サセックスの農家に滞在中のポール・マッカートニーは「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句。カナダに滞在中だったリンゴはのちに妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。ブライアン・フェリーとロキシー・ミュージックは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ジョージ・ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をジョンの追悼曲としてそれぞれ発表した。 また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど、旧友だった。キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。 日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われた。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたジョンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。
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