ハンブルク時代
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「交響曲第3番 (マーラー)」の記事における「ハンブルク時代」の解説
マーラーは、1891年3月26日にハンブルク市立劇場の指揮者に就任すると、1893年からザルツブルクの東方50kmにあるアッター湖畔のシュタインバッハで夏の休暇を過ごすようになった。シュタインバッハには、妹のユスティーネや友人でヴィオラ奏者のナタリーエ・バウアー=レヒナーをしばしば伴っている。1894年にはこの地に作曲小屋を建て、6月から8月の間、小屋にこもって作曲するようになった。1897年4月にハンブルクを離れるまでの間、シュタインバッハで1896年までに、交響曲第3番のほか、交響曲第1番の改訂、交響曲第2番の完成、歌曲集『少年の魔法の角笛』が手がけられている。 シュタインバッハでのマーラーの生活は規則正しいもので、早朝に起きると午前中は作曲に専念、昼は食事や会話を楽しみ、午後は近くの森や牧場や湖畔を散策、夜は読書と会話に当てられた。夜の読書では、ドストエフスキーやショーペンハウアー、ジャン・パウル、ニーチェなどの思想や小説を読み、ときにニュートンやテオドール・フェヒナーなど自然科学の分野の著作にも手を広げた。 一方、1895年2月6日にマーラーの14歳年下の弟オットーがピストル自殺しており、これによってマーラーは衝撃を受けた。その後作曲された交響曲第3番にこの事件の直接的な影響を見ることはできない。しかし、第2番までに見られる自叙伝的性格や人間の生死の葛藤といったテーマから、これらも包含するような自然賛歌的な内容を第3番は持っており、マーラーの目を自然界に向けさせたきっかけのひとつとして、弟の死があったと見ることも可能である。
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ハンブルク時代
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「ゲオルク・フィリップ・テレマン」の記事における「ハンブルク時代」の解説
テレマンの最大の転機は1721年(40歳)に訪れた。ハンザ自由都市 ハンブルク市の音楽監督・兼・ヨハネウム学院のカントルだったヨアヒム・ゲルステンビュッテルが亡くなり、その後任に選ばれてハンブルクに移住したのである。およそ一年後、ひさしの傾いていたハンブルク市の歌劇場が再建され、その音楽監督と歌劇の作曲も引き受けることになった。 そののち亡くなるまでの46年間、彼はハンブルク市の音楽全体を指導する監督の位置にあり、オペラ、コンサート、教会音楽の演奏や出版を次々と行い、当時のヨーロッパでは随一とも言われるほどの高い人気と名声を獲得していった。1722年、ライプツィヒ聖トーマス教会の楽長クーナウが亡くなった時、ライプツィヒ市当局はクーナウの後任としてまずテレマンを招聘しようとしたが断られたため、仕方なく当時は中程度の知名度に過ぎなかったバッハを招聘したという記録があるほど、当時のバッハは作曲家としてはテレマンよりも格段に低い扱いを受けていた。しかし、そのような一般民衆の評判とは何ら関係なく、テレマンはバッハの音楽の良き理解者であり、前記の通りテレマンとバッハは生涯にわたって深い親交を結んでいた。 1726年(45歳)、遠く離れた中部ドイツのバイロイト宮廷からも楽長に任命され、折にふれて器楽作品を書き送るほか、毎年ひとつずつ歌劇を提供するようになった。1729年(48歳)、ロシアから赴任の要請を受けたが、結局これには応じなかった。「腰を落ちつけたい気持ちが、高い栄誉への慾望よりも強かった」と自叙伝に記している。 1737年(56歳)9月末から8か月、パリに滞在した。そこで新しい四重奏曲集(「パリ四重奏曲」)と6曲のソナタ集を出版した。この四重奏曲をフラウト・トラヴェルソの名手ミシェル・ブラヴェが素晴らしく演奏したとテレマンは書いている。その他、詩篇、協奏曲、カンタータなどを作曲し、コンセール・スピリチュエルで演奏され、たいへんな栄誉を受けた。 テレマンは、裕福な市民層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の市民向け音楽雑誌 「忠実な音楽の師」 を刊行、毎号、新作楽譜を掲載し、必ず続きは次の号に載せることで継続して買ってもらうという、新手の商法を生み出した商売上手であった。彼の作る曲は常に当時のヨーロッパ社会の流行の先端を行く作風であり、また複雑で難解とされるバッハなどの曲と違ってアマチュアにも演奏しやすかったため、当時の貴族や富裕層の人々からは大いに親しまれていた。 しかし、音楽の世界での成功とは裏腹に、彼の結婚は失敗続きであった。彼は最初の妻と1人の娘をもうけて15ヶ月で死別した後、1714年にマリア・カテリーナと再婚し、合計9人の子ども(誰も音楽家にならなかった)を授かったが、この2番目の妻マリアはスウェーデンの将校と関係を持っているとの噂だったため、結婚は1720年代前半までにすでに問題を抱えていた。マリアはギャンブルに熱中してテレマンの年収を超える4400ライヒスターラーにも上る莫大な負債をこしらえた が、ハンブルクの商人達の助けで、彼は破産から救われた。1736年までにマリアはテレマンの家を出た。彼女は夫より約8年長生きして、フランクフルトの修道院で1775年に亡くなった。 長男アンドレアスが1755年に死んだあと、テレマンはアンドレアスの息子ゲオルク・ミヒャエル・テレマン(de:Georg Michael Telemann、1748年4月20日-1831年3月4日)を引き取り、後にゲオルク・ミヒャエルは音楽家および神学者として著名になった。晩年、テレマンの視力は悪化し始め、1762年ごろまでにかなり健康が悪化したが、創作意欲には何ら支障はなく、1767年6月25日の夕方に呼吸器疾患による衰弱のため86歳で死去するまで作曲を続けていた。 テレマンの死後、長年の友人であったバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが彼の後任としてハンブルクの音楽監督になったが、エマヌエルが着任するまでの間はゲオルク・ミヒャエルが監督の職務を代行した。そしてエマヌエルの死後はゲオルク・ミヒャエルが正式に後任の監督になり、テレマンとバッハの交友関係は孫の代まで長く続いた。
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ハンブルク時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:00 UTC 版)
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。 1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。またジョンはこのとき、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。
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