ハレ・ハンブルク時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:10 UTC 版)
「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の記事における「ハレ・ハンブルク時代」の解説
1685年、ブランデンブルク=プロイセン領(現ザクセン=アンハルト州)ザーレ河畔のハレに生まれた。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子のヴァイセンフェルス(ドイツ語版)公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた。父は1697年に没している。 ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという。ヘンデルはハレの聖母マリア教会(英語版)のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ(英語版)に作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった。 1702年にハレ大学に入学したが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめる。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた。翌1703年、ヘンデルはハンブルクへ出た。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであり、ヘンデルはバイオリン奏者やチェンバロ奏者として実地の経験を積んでその影響を受けた。ハンブルク時代にはヘンデルの最初のオペラ『アルミーラ』が1705年1月8日に上演され、成功した。同年2月には次のオペラ『ネロ』(現存せず)が上演されている。翌1706年にも2つのオペラを作曲しているが(1708年上演)、これらも現存しない。ハンブルクではまたヨハン・マッテゾンと親友関係にあったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがある。しかし後に和解している。 1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。2年後にバッハも同じ経験をしている。
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