アマチュア期
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大阪の老舗ライブハウスBAHAMAを中心に活動を始める。当時はバンドは楽しくなかった。苦労を苦労と感じず子供の頃に決めたことなので続けていた。作った曲は100曲以上。しかしデビュー後歌われる曲は少なかった。当時は目立ったプロモーションは行っていなかった。戦略的なことが苦手でチラシを配ったことがない。動員を増やすことより良い曲を作ることしか考えていなかった。 Gargoyle(KIBA)のラジオにピックアップされ目をかけられるようになる。 結成して丸2年経った頃、デモテープを作りはじめる。「INSIDE」発売記念ライブでは曲順通りに演奏した。曲を純粋に聴いて貰いたいために、スクリーンを下ろしたまま演奏したことも。「beautiful」他最初期の楽曲は現在の自分が置き去りにした理想を抱く自分に対して謝罪文をつらつら書いているようなものだった。関西発のオムニバスアルバム「ラジカルパンチ」に参加。収録曲は「GOOD-BYE(LongVer)」。題名の由来は太宰治から。とあるライブの出来が良く、帰る途中に出来た。 その後数社に送ったデモテープがhideの耳に止まりLEMONedレーベルに参加することとなる。トリビュート「LEMONed I Scream」収録にあたって、選曲理由はレーベルのテーマソング的であったこと、Shameとしてアレンジが明確に見えたこと。1999年のライブでは既に機関銃のように喋っていた。同年のMLJにもライブとトークショウ、セッションに参加。
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アマチュア期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:11 UTC 版)
バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌った。1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱、中国大会2位、全国3位となる。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。 ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い、中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた。 1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。 1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし、拓郎の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京した。
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アマチュア期
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「キャロル (バンド)」の記事における「アマチュア期」の解説
1972年4月、矢沢永吉が川崎駅近くのイトウ楽器店に自ら書いた貼り紙で募集をかけ、同年6月結成される。貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!」だった。当時はフォークがメジャーシーンに浮上しはじめ、ディスコはバタバタ倒れて、ロックンロールを演奏できる場所がなくなっていった時期だった。ジョニー大倉が矢沢に電話して京急川崎駅で待ち合わせたが、矢沢は当時吉田拓郎みたいな肩まで伸びた長い髪で、ジョニーのリーゼントを笑ったという。近くの喫茶店で2~3時間話をしたが、その頃から矢沢は「ビッグになるために俺は広島から出て来た」と言っていたという。 もともと、ビートルズのコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似することで注目を集める。また、オリジナル曲にもその影響が多く見られる。矢沢=大倉の二人で多くの作詞作曲を担当(主に矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)した。 当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉。クリスマス・キャロルにインスピレーションを受けたという「キャロル」というバンド名に始まり、革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの。当時、まともな革ジャンを売っているのはバイクショップぐらいしかなかったという。ビートルズの本の中にあったハンブルク時代の写真を見てジョニーが「これしかない!」と思いついたものだが、当時リーゼントでエレキギターを持ったら笑われたという。矢沢は、バンド結成当初はマッシュルームカットだった。矢沢は著書『成りあがり』の中で、革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前の矢沢のバンド「ヤマト」の頃からの構想だったと書いている。 ジョニーはキャロル結成時にも精神病院に入院して一時連絡が付かず、半年後に現れた時には顔中切り傷があるような状態で、デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、大部分、矢沢によって決定されていく。矢沢はキャロル結成時には既に100曲以上のオリジナル曲を持っており、矢沢の性格、矢沢の生き方がキャロルの方向を決めていった。ファンやマスコミに触れるキャロルは、大半矢沢に代表されていた。 キャロル結成後の同年8月、横浜伊勢佐木町のディスコ・ピーナツで初演奏。ピーナツでは店のレギュラー・バンド、いわゆる"ハコバン"として採用された。もっぱら初期のビートルズナンバーやロックロール・スタンダード、またお客からのリクエストにも応える。他に京浜地区のゴーゴーホールやナイトクラブ等でライブ活動を行う。メンバーの送り迎え、セッティング、店のマネージャーとの交渉など、バンドマネジメントは全て矢沢が行う。深夜から明け方まで、"荒くれの兵隊"や、"夜の商売の女"、"酔っ払い相手"に演奏するヘヴィな下積み時代をおくり鍛え上げられる。東京蒲田の名門キャバレー・ウラシマに出演する頃には、キャロルのトレードマークともなる「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」の三大要素も確立しつつあった。
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アマチュア期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:37 UTC 版)
前身バンドは世良が地元・広島県福山市の高校2年のとき加入したFBIバンドである。当時はビートルズやディープ・パープルのカバーをするバンドが多かったが、FBIバンドはローリング・ストーンズやフェイセズを主にカバーし、ブルースを志向していたため、当時ブルースが盛んだった大阪にメンバー全員で進学。在学中に音楽コンテストの関係者から「ボーカルがヘタ」との指摘を受け、それまでベースの担当だった世良がボーカルに交代。世良たちが大学4年のとき、世良が正式にボーカルに専念した際にバンド名を"ツイスト"に変更した。 1977年、メンバーの大学卒業を前に、バンド解散のけじめとしてヤマハポピュラーソングコンテストに出場。10月、「あんたのバラード」がポプコン本選会でグランプリを獲得。フォーク/ニューミュージック系シンガーが多かったポプコンでロックバンドがグランプリを獲るのは初めてのことで、一つの"事件"だった。世良公則&ツイストのグランプリ以降、ロック系の楽曲が増えた。世良公則&ツイストがこの後、大きな人気を得たことで、ポプコンの名が世間に知らしめられ、ポプコンはスターの登竜門として華々しくなっていった。11月の第8回世界歌謡祭でもグランプリを獲得、12日後の11月25日にキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)/AARD-VARKレーベルからシングル盤「あんたのバラード」を発売した。それは旧ツイストのメンバーによる世界歌謡祭で演奏したライブ音源である。このような経緯から世良自身は「バンドとしての愛着は(旧)ツイストの方にあった」と述べている。世良公則と神本宗幸以外のメンバーがプロとして活動することを拒否したため、大学のバンド仲間で、別バンドに所属しているプロ志向の仲間達を加入させ、同月「世良公則&ツイスト」を結成。「夜のヒットスタジオ」出演後、ヤマハのプロデューサーから勧誘を受け、1978年2月に上京し正式にプロデビューとなった。
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