殺害と隠蔽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 08:22 UTC 版)
7月20日午後、研究室を離れた大場はK子と新宿で合流した後、逢引きに過去数度利用した八王子市鑓水にある恩師H教授の別荘に誘ったうえでK子を絞殺し、遺体を周辺の空き地に埋めた。その後、大場は午後11時過ぎに立教大学アメリカ研究所の女性職員A子を池袋駅近くの料理店に呼び出している。A子は大場が女子学生と問題を起こすたびに相談相手になっていた。大場はA子に、K子との関係について「けりをつけた。君の想像以上の方法だよ」と打ち明け、「自殺?」と尋ねるA子に対し、「もっと大変なんだ」と殺人を示唆したうえで、夕方5時から夜9時まで一緒にいたことにしてほしいとアリバイ工作への協力を懇願した。 翌日、大場は恩師H教授が主催する教員の囲碁同好会に参加するため熱海に向かった。一方、大場からアリバイ工作への協力を依頼されたものの殺人の可能性に困惑したA子は、22日に大場の8年先輩にあたる英米文学科M助教授に事実を打ち明けた。驚愕したM助教授は、大場とは立教大学の同期でもある専修大学のK助教授を自宅に呼び、徹夜で対応を協議する。そして、23日午後に熱海から戻ってきた大場を大学に呼び出し、A子から聞いた事実を確認したうえで自首するようK助教授とともに説得した。これに対して大場は、「やっちゃったもの、仕方がないじゃないか。残った者がどううまくやっていくか相談しよう」と開き直り、M助教授らは呆れ返ったが、夫の不倫に悩んで自殺未遂をしたことのあるJ子(彼ら共通の後輩でもある)への配慮から、大学および警察への通報を思いとどまる。翌日もM助教授は自首を勧めたが、大場は「自分のことをあれだけ愛してくれた彼女なのだから、あんな扱いをされても、彼女は本望だろう」と言い出し、「では君の娘が将来そんなことをされても構わないのか」と迫られると「それは認めるわけにはいかん」と答え、M助教授をあ然とさせた。こうした先輩・親友の苦悩をよそに、大場は25日に何事もなかったかのように妻子を連れて千葉県の白浜まで海水浴に出かけた。しかし、夫婦喧嘩の末に翌26日夜に一人で東京に戻り、高円寺のスナックにK助教授を呼び出す。とはいえ、あいかわらず自首の説得には応じなかった。大場は29日に鑓水の現場に立ち寄り、K子の遺体をより目に付きにくい地点に埋め直している。その後、大場はM助教授に会い、「絶対にわからない場所に埋めた。大丈夫だ」と重ねて自首を拒否した。 K子が帰宅すると手紙で告げていた8月4日が過ぎ、さらに夏期休暇中とはいえ失踪から約1ヵ月がたち、焦慮したK子の母親は8月18日に大学を訪れて捜索を要請した。母親は、大場との関係に悩んでいることを赤裸々に綴った娘の手記を彼女の部屋からすでに発見しており、K子の失踪に大場が何らかのかたちで関与していることを疑い始めていたが、あくまでも家出と信じていた。一方、大学側は大場とK子の抜き差しならない関係をある程度は察知していたが、個人レベルの問題として外部には「ノー・コメント」で対応する方針を固める。 これに対し、大場はあいかわらず隠蔽工作を続けた。K子がセカンドスクールとして通っていた日本翻訳専門学校をわざわざ訪ねて、「教え子が自分の責任で行方不明になり困っている。クラスメートの住所を教えてほしい」と、心底心配している態度で協力を依頼する。21日の読売新聞夕刊と翌日朝刊には、「K子さん、連絡を待つ父病気、ひろよし」と大場の依頼による三行広告が掲載された。 なお、K子の失踪を告げられた妻のJ子は、M助教授たちの説得により、8月上旬から大阪にある姉の嫁ぎ先に娘たちを連れて滞在していた。13日に大阪を訪れたK助教授がJ子に面会した際に、「K子さんが自殺している可能性があるのですね。そうなっても自分は大場と一緒にやっていくしかないと思います」と答えている。しかし、J子はこの直後に東京に戻り、またも自殺未遂をおかしていた。 当時、大場はロード・ラグラン著『文化英雄-伝承・神話・劇』の翻訳原稿の最終校正を行っていた。8月25日に出版社で開かれた共同翻訳者たちとの検討会で、大場は疲労のためか、あるいは教え子失踪の真相が発覚しつつあることへの心理的動揺のためか、何を問われても上の空といった状態だった。このため、結局は会を中断せざるをえなくなったという。そして翌26日、ついに大場は新学期を前に自首を考えるようになり、27日にM助教授らと打ち合わせを始めた。 一方、K子の母親から捜索要請を受けた立教大学側は、学生部を中心に内密に調査をすすめていたが、8月28日になってM助教授から大場の1年後輩で一般教養部の学生副部長だったH助教授に、アメリカ研究所のA子が1カ月以上前に証言したK子失踪の真実が知らされる。開学以来、未曾有のスキャンダルとなる衝撃的情報は大学執行部に伝わり、ただちに一般教育部長I教授が大場を呼びだして事実確認を行った。さらに30日にはH学生副部長らが聞き取り調査を行う。しかし大場はいずれに対しても、K子失踪については「詳しいことは勘弁してくれ」と、のらりくらりと黙秘し、いわば煙にまかれるかたちとなった。執行部内では警察に即時通報すべきとの強い意見も出たが、M助教授は大場を自首させるため最後の説得をするので、いましばらく待ってくれと訴え、また大学側もブランド・イメージへの影響や、万が一間違いだった場合は過激派学生から人権問題との糾弾を受けかねないうえ、警察官が構内に入ると沸騰している学生運動をさらに刺激する可能性があるとし、慎重に対応することにした。 8月31日、M助教授の説得に応じて大場はついに自首を決心し、一般教育部長宛に辞表を郵送するとともに研究室を整理した。翌日、大場はM助教授・K助教授と最後となる会食をする。そして、大場とJ子を離婚させ、K助教授がJ子と娘たちを自宅にかくまい、そのうえでマスコミの目に付きにくい土曜日の8日に、大場に弁護士をつけて自首させるというかたちで、段取りが整えられた(ちなみに、当時の世間の耳目は金大中事件に集中していた)。しかし、大場は翌日の9月2日に義父の見舞いに行くとM助教授に電話をかけて以降、妻子とともに消息を絶つ。 大場の一家は、自宅を去った2日の夜は帝国ホテルに宿泊し、日曜日のディナーを楽しんでいる。そして3日朝に東京を離れ、午後3時20分ごろに下田東急ホテルに到着した。ちなみに伊豆は、大場夫妻の新婚旅行の地でもある。そして、4日午前10時ごろにホテルをチェックアウトしている。 一方、大場の妻子の隔離を引き受けたものの、大場から数日にわたり一向に音信がないことに不審を抱いたK助教授は、5日に大場宅の鍵を持つJ子の母に声をかけ、豊島区南長崎3丁目にある大場の自宅マンションを訪ねた。しかし内部は無人で、家財道具の大半は撤去されており、閑散とした室内には不吉にも喪服が整然と備えられていた。さらに、大阪にいるJ子の姉から実家に、現金10万円を添えて大場一家が破滅した顛末と形見分けなど事後の処理を細かく依頼したJ子直筆の遺書が届いたとの電話連絡が入る。また、M助教授の元にも「最後になって深い友情を裏切ってしまうことになりました。(中略)J子には事実については最初から話しておりました。それで彼女には、以来死ぬことだけしか念頭になかったのですが、(中略)今はただ彼女の気持ちだけを最後には尊重してやりたいという気持ちだけが強いようです」という大場の遺書が届く。二通とも3日下田郵便局消印が押されていた。ただちにJ子の目黒区大岡山にある実家から所轄の碑文谷警察署に、ノイローゼ気味の夫婦が娘二人を連れて下田方面に失踪したと捜索願が出される。 大場夫婦に「やられた」と思ったM助教授らは、午後10時半ごろに警視庁捜査一課の宿直室を訪問し、大場による教え子殺害の可能性と一家失踪を伝える。そして、翌朝に前述のように大場一家の遺体が奥石廊崎で発見された。下田署による検視の結果、4日の夕刻に一家心中したものと推定されている。
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