殺害の経緯
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UNVの同僚であったイブラハム・ガーニーによると、殺害直前、プラサットサンボ郡ではガーニーと中田が殺害されるという噂が広まり、事件発生2日前の4月6日には、普段来訪者の多い中田の事務所に立ち寄る者がいなくなるという現象が起こっていた(この話を耳にした日本人文民警察官の坂井清三は中田に対し、当分の間プラサットサンボ郡に近付かないよう忠告していた)。 4月8日午前7時頃、中田は国際連合ボランティア(UNV)の会議に出席するため、カンボジア人通訳のレイ・ソク・ピープとともにプラサットサンボ郡プラサット・サンボーから、州都コンポントムに向けて車で出発した。7時30分頃、プラサットサンボ郡選挙監視本部に「クメール・ルージュとみられるグループに停止命令を受けて拘束された」という無線連絡が入れられた。7時55分、「クメール・ルージュが攻撃してきた」「我々は撃たれた。助けてくれ」という連絡を最後に無線が途切れた。 その後、コンポントムの北東30キロの場所で車が発見された。車のフロントガラスおよび後部には銃撃された跡が認められ、フロントガラスは粉々になっていた。中田は車の下でうつ伏せに、レイが車内の右側の座席に倒れていた。中田は既に死亡しており、レイは息があったためプノンペンの病院へと運ばれたがまもなく死亡した。レイは病院で、クメール・ルージュによる犯行であると述べたといわれている。 この事件に関してUNTACは4月28日、「投票業務のための現地スタッフ採用を巡ったトラブルから発展した単独犯の疑いが強い」と発表し、当初予測されていたクメール・ルージュの関与を否定した犯行の動機としてUNTAC側は、プノンペン政権に所属する軍人と深い関わりのある人物の採用を中田が取り消したことに対する恨みを挙げている。なお、UNTAC担当国際連合事務総長特別代表であった明石康は事件発生直後に「疑われるのはクメール・ルージュである」と発言しており、この発表に「断言できるんですかな」と不満を表明していたが、後に発行された著書ではUNTACの発表と同様の見解に立ち、より具体的に、プノンペン政権に所属する軍人による犯行と推測している)。テジョー・スラックスターも、自身が知るクメール・ルージュの犯行と照らし合わせ、「クメール・ルージュの犯行であったなら、お金から車から、全部持っていくはずだ」(現場には自動車が残され、中田が所持していた2000ドルの現金も手つかずの状態であった)と述べた上で、中田が生前現地でスタッフを募集した際、殺害現場となったフィル・クレル村の住民を採用せずコンポントムの住民ばかりを採用したことに恨みを持った同村の住民が犯人であると推測している。ただしスラックスターは、現場に残された足跡から3-5人による犯行だという見解を述べている。こうした見解に対し、UNVや文民警察官の中には懐疑的な目を向ける者も存在している。事件発生当時カンボジアで取材活動を行っていた三好範英は、1回目の銃撃でレイは重傷を負ったが中田は無傷であったと推測した上で、その時中田が急いで現場を立ち去らなかったのは「車の前方にも武装した人間がいたのであり、彼らが中田さんの車の進行を阻止したのではいかとの見方もできるのではないか」と述べている。三好によると、事件の有力な容疑者は浮上したものの逮捕することはできなかった。カンボジア政府が2002年に中田と父の武仁に勲章を授与した際の証書には「中田厚仁氏はクメール・ルージュによって殺害された」という一文がある。 UNVの中にはUNTACに対し、安全確保策が不十分であったと非難する者もいる。事件発生後から2日後の4月10日、コンポントム州のDESは「UNTACが適切な処置をとっていれば2人の死は避けられたはずであった」という声明を発表した。一方、テジョー・スラックスターによると、中田が出発した時刻はインドネシア軍が治安上の理由から郊外へ出ないよう通告していた時間帯(夜間から午前8時にかけて)にあたり、インドネシア軍は当該時間帯に外出する際には護衛につく旨を申し出ていたが、中田は殺害当日を含め一度も護衛を依頼したことがなかったという。さらに中田は外出時にインドネシア軍に報告を入れることも稀で、この日も報告なしに外出したという。ただし明石康によるとUNVの多くは英語を用いていたのに対しコンポントム州に配備されていたインドネシア軍には英語を話せる者が少なく、両者の意思疎通は不十分であった。事件後、インドネシア軍に英語を話せる者を増員する対策がとられた。明石はさらに、「UNTACの要員全部をテロ行為から守ることは、物理的に不可能」であったと述べている。この点については共同通信社記者の近藤順夫も、全国に200以上の事務所があり移動の多いUNVの警備は「手が回らないのが現状だった」と述べている。 中田の遺族は葬儀のためにカンボジアを訪れた際に、明石康に対し直接、事件に関する調査報告書を提出するよう求めたが、実行されないままUNTACは解散した。事件の調査について明石は、「カンボジアではこの種の事件の調査を徹底的にやろうとしても曖昧な結果に終わってしまうことが通例」とした上で、「ご遺族にはお話しする言葉も見つからない」と述べている。
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殺害の経緯
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湾岸戦争において「小切手外交」との非難を浴びた反省から、1992年に日本国政府は初のPKO活動となる自衛隊カンボジア派遣を決定し、道路補修などを任務とする自衛官に加え、カンボジア警察に助言する文民警察官として、全国の都道府県警察から警察官75人が派遣された。 自衛隊派遣の是非を巡っては、PKO協力法の国会審議で激論が交わされた一方で、文民警察官派遣への議論は少なく、注目度も低かった。また、600人規模の自衛隊は、有刺鉄線が張り巡らされた宿営地を拠点にまとまって活動したのに対し、文民警察官はカンボジア各地に分散された。文民警察官の派遣先には、高田らが派遣されたタイ国境に近いアンピル村をはじめ、ポル・ポト派が武装解除を拒むレッドエリアといわれる危険な地域も多く、総選挙が近づくにつれて治安も悪化した。 ポル・ポト派による停戦違反や選挙妨害が頻発し、隊員宿舎も武装集団に襲撃されるなど、現地の治安情勢悪化は急速に悪化していたが、文民警察官らは武器携行を認められていなかったことから、身を守るため、現地で自動小銃を購入する隊員もいた。文民警察隊隊長の山崎裕人は、ポル・ポト派が日本を標的にするとの情報に接し、1993年4月16日に「小官自らの判断で撤収指令を全隊員に発する可能性が出てきた」と文民警察官に宛てて伝達している。こうした中、アンピル村に駐在している日本人文民警察官は、自らの安全を確保するために、ポル・ポト派の中でも穏健派と目されたニック・ボン准将と接触し、独自に関係構築を模索した。 しかし、5月4日昼過ぎ、アンピル班の日本人文民警察官5人が、オランダ海兵隊UNTAC部隊の護衛を受け、同村の国道691号をパトロール巡回中、ポル・ポト派とみられる身元不明の武装ゲリラに襲撃された。10人程度とみられる武装ゲリラは、先頭車両を対戦車ロケット弾で攻撃し、車列が停止すると、自動小銃で一斉射撃をした。オランダ海兵隊も応戦したが、現場で高田警部補が死亡、他の4人の日本人文民警察官も重傷を負い、ヘリコプターでバンコクのプミポン空軍病院に搬送された。また、この攻撃により、オランダ海兵隊5人も重傷を負った。 文民警察隊員らは、武装ゲリラがその後、ポル・ポト派の村へ向かって行くのを見ているが、武装ゲリラがポル・ポト派だという確証は得られておらず、UNTACや日本政府は、ポル・ポト派の襲撃とは断定できないとしている。
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