殺害の経緯とは? わかりやすく解説

殺害の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 03:51 UTC 版)

中田厚仁」の記事における「殺害の経緯」の解説

UNV同僚であったイブラハム・ガーニーによると、殺害直前、プラサットサンボ郡ではガーニー中田殺害されるという噂が広まり事件発生2日前の4月6日には、普段来訪者の多い中田事務所立ち寄る者がいなくなるという現象起こっていた(この話を耳にした日本人文民警察官坂井清三中田対し当分の間プラサットサンボ郡に近付かないよう忠告していた)。 4月8日午前7時頃、中田国際連合ボランティアUNV)の会議出席するため、カンボジア人通訳のレイ・ソク・ピープとともにプラサットサンボ郡プラサット・サンボーから、州都コンポントムに向けて車で出発した7時30分頃、プラサットサンボ郡選挙監視本部に「クメール・ルージュとみられるグループ停止命令受けて拘束された」という無線連絡入れられた。7時55分、「クメール・ルージュ攻撃してきた」「我々は撃たれた。助けてくれ」という連絡最後に無線途切れたその後、コンポントムの北東30キロの場所で車が発見された。車のフロントガラスおよび後部には銃撃された跡が認められフロントガラス粉々になっていた。中田は車の下でうつ伏せに、レイ車内右側座席倒れていた。中田は既に死亡しており、レイは息があったためプノンペン病院へと運ばれたがまもなく死亡したレイ病院で、クメール・ルージュによる犯行であると述べたといわれている。 この事件に関してUNTAC4月28日、「投票業務のための現地スタッフ採用巡ったトラブルから発展した単独犯の疑いが強い」と発表し当初予測されていたクメール・ルージュ関与否定した犯行の動機としてUNTAC側は、プノンペン政権所属する軍人と深い関わりのある人物の採用中田取り消したことに対す恨み挙げている。なお、UNTAC担当国際連合事務総長特別代表であった明石康事件発生直後に「疑われるのはクメール・ルージュである」と発言しており、この発表に「断言できるんですかな」と不満を表明していたが、後に発行され著書ではUNTAC発表同様の見解に立ち、より具体的にプノンペン政権所属する軍人による犯行推測している)。テジョー・スラックスターも、自身が知るクメール・ルージュ犯行照らし合わせ、「クメール・ルージュ犯行であったなら、お金から車から、全部持っていくはずだ」(現場には自動車残され中田所持していた2000ドル現金手つかずの状態であった)と述べた上で中田生前現地スタッフ募集した際、殺害現場となったフィル・クレル村の住民採用せずコンポントムの住民ばかりを採用したことに恨み持った同村住民犯人であると推測している。ただしスラックスターは、現場残され足跡から3-5人による犯行だという見解述べている。こうした見解対しUNV文民警察官中には懐疑的な目を向ける者も存在している。事件発生当時カンボジア取材活動行っていた三好範英は、1回目銃撃レイ重傷負った中田無傷であった推測した上でその時中田急いで現場を立ち去らなかったのは「車の前方にも武装した人間がいたのであり、彼らが中田さんの車の進行阻止したのではいかとの見方もできるのではないか」と述べている。三好によると、事件有力な容疑者浮上したものの逮捕することはできなかった。カンボジア政府2002年中田と父の武仁に勲章授与した際の証書には「中田厚仁氏はクメール・ルージュによって殺害された」という一文がある。 UNV中にはUNTAC対し安全確保策が不十分であった非難する者もいる。事件発生後から2日後4月10日コンポントム州DESは「UNTAC適切な処置とっていれば2人の死は避けられたはずであった」という声明発表した一方、テジョー・スラックスターによると、中田出発した時刻インドネシア軍治安上の理由から郊外出ないよう通告していた時間帯夜間から午前8時にかけて)にあたりインドネシア軍当該時間帯外出する際には護衛につく旨を申し出ていたが、中田殺害当日含め一度護衛依頼したことがなかったという。さらに中田外出時にインドネシア軍報告入れることも稀で、この日も報告なしに外出したという。ただし明石康によるとUNV多くは英語を用いていたのに対しコンポントム州配備されていたインドネシア軍には英語を話せる者が少なく両者意思疎通は不十分であった事件後、インドネシア軍に英語を話せる者を増員する対策がとられた。明石はさらに、「UNTAC要員全部テロ行為から守ることは、物理的に不可能」であった述べている。この点については共同通信社記者近藤順夫も、全国200上の事務所があり移動の多いUNV警備は「手が回らないのが現状だった」と述べている。 中田遺族葬儀のためにカンボジア訪れた際に、明石康対し直接事件に関する調査報告書提出するよう求めたが、実行されないままUNTAC解散した事件調査について明石は、「カンボジアではこの種の事件調査徹底的にろうとして曖昧な結果終わってしまうことが通例」とした上で、「ご遺族にはお話しする言葉も見つからない」と述べている。

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殺害の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 01:29 UTC 版)

高田晴行」の記事における「殺害の経緯」の解説

湾岸戦争において「小切手外交」との非難浴びた反省から、1992年日本国政府は初のPKO活動となる自衛隊カンボジア派遣決定し道路補修などを任務とする自衛官加えカンボジア警察助言する文民警察官として全国都道府県警察から警察官75人が派遣された。 自衛隊派遣の是非を巡っては、PKO協力法国会審議激論交わされ一方で文民警察官派遣への議論少なく注目度低かったまた、600規模自衛隊は、有刺鉄線張り巡らされ宿営地拠点まとまって活動したのに対し文民警察官カンボジア各地分散された。文民警察官派遣先には、高田らが派遣されタイ国境に近いアンピルをはじめ、ポル・ポト派武装解除拒むレッドエリアといわれる危険な地域多く総選挙近づくにつれて治安悪化したポル・ポト派による停戦違反選挙妨害頻発し隊員宿舎武装集団襲撃されるなど、現地治安情勢悪化急速に悪化していたが、文民警察官らは武器携行認められていなかったことから、身を守るため、現地自動小銃購入する隊員もいた。文民警察隊長山崎裕人は、ポル・ポト派日本標的にするとの情報接し1993年4月16日に「小官自らの判断撤収指令全隊員に発する可能性出てきた」と文民警察官宛てて伝達している。こうした中、アンピル駐在している日本人文民警察官は、自らの安全を確保するために、ポル・ポト派中でも穏健派目されたニック・ボン准将接触し独自に関係構築模索した。 しかし、5月4日昼過ぎ、アンピル班の日本人文民警察官5人が、オランダ海兵隊UNTAC部隊護衛を受け、同村国道691号をパトロール巡回中、ポル・ポト派とみられる身元不明武装ゲリラ襲撃された。10程度とみられる武装ゲリラは、先頭車両対戦車ロケット弾攻撃し車列停止すると、自動小銃一斉射撃をした。オランダ海兵隊応戦したが、現場で高田警部補死亡、他の4人の日本人文民警察官重傷負いヘリコプターバンコクプミポン空軍病院搬送された。また、この攻撃により、オランダ海兵隊5人も重傷負った文民警察隊員らは、武装ゲリラその後ポル・ポト派向かって行くのを見ているが、武装ゲリラポル・ポト派だという確証得られておらず、UNTAC日本政府は、ポル・ポト派襲撃とは断定できないとしている。

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