反逆への評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 15:08 UTC 版)
謀反について、隆房自身は「我が運も義隆の御運も、天道のはからい」として正当化した(大内義隆記)。なお、主君への反逆が悪であるという概念が普及する江戸時代と異なり、不適切な主君を家臣が追い落として新たな主君を迎えるというのは、ある種の自浄作用とする意見もある。 天文21年(1552年)、幕府に使者を送って謀反の正当性を認めて貰っている。また、天文22年(1553年)の蜷川家文書には、大内晴英の偏諱や、家督を継承した晴英への礼物に感謝して太刀を下賜した記録が残っている(逆に、前述の通り明は、大内義長を簒奪者としている)。 厳島の戦いで陶晴賢を倒した元就は、「義隆父子を討って八虐を犯した者は、天誅を逃れられない」として非難し、晴賢の陰謀は「弑逆の悪」(新裁軍記)と表現している。しかし、前述の通り隆房の謀反と同調して行動を起こしていることから、これらは陶と戦った毛利の大義名分を記したものと考えられる。 大友氏重臣の戸次鑑連(立花道雪)が後年に事変を振り返り、「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」としている(『立花家文書』)。
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