反逆、そして帝位にとは? わかりやすく解説

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反逆、そして帝位に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 04:58 UTC 版)

ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事における「反逆、そして帝位に」の解説

1341年アンドロニコス3世没し息子ヨハネス5世パレオロゴスが僅か10歳即位すると、摂政を巡る争い起きた。カンタクゼノスは自身がその職を努める事を信じて疑わなかったが、皇太后アンナはこれに反対し、カンタクゼノスの懐刀とも言うべきアポカウコスと結んで彼に朝敵宣告突きつけた。カンタクゼノスはそれに対抗してトラキア都市ディディモティコンで皇帝宣言したが、ヨハネス5世廃する事なくそれを支え共同皇帝制度建前としていた。 かくして帝国二分する内乱始まったのであるが、当初はカンタクゼノスに不利であった帝国第二の都市テッサロニキでは彼の友人支持者でもあったシュナデノスが行政官務めていたが、ここで「熱心党」(ゼロータイ、ないしジロテ)が反乱起こし、シュナデノスを追放して市政掌握したからである(1342年)。彼らは大土地所貴族層を代表するカンタクゼノスを憎悪する中産下層階級都市市民をその支持基盤とし、宗教的に静寂主義推すカンタクゼノスとは対立関係にあった。彼らはパレオロゴス家正統皇帝ヨハネス5世強力に支持した同様の動き帝国各地発生し、カンタクゼノスは窮地追い込まれた。 カンタクゼノスは隣国セルビア王国逃れステファン・ウロシュ4世ドゥシャン王の支援求めたその後マケドニアテッサリア地方勢力回復成功したカンタクゼノスと、この地域野心抱いていたドゥシャンとの関係は悪化し同盟解消された(ドゥシャンは逆にヨハネス5世側に回った)。カンタクゼノスはこれに代わって、知己であったオスマン朝君主オルハン支援の取り付け成功し、娘テオドラを嫁がせた。オルハン支援得たカンタクゼノスは反撃成功し1347年2月8日帝都コンスタンティノポリス入城果たした。彼は娘のヘレネヨハネス5世パレオロゴスに娶わせ、自身正式に戴冠した。かつての建前であるが、カンタクゼノスはヨハネス5世との共同統治という形式遵守し10年間という期限付き正帝として実権掌握した

※この「反逆、そして帝位に」の解説は、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の解説の一部です。
「反逆、そして帝位に」を含む「ヨハネス6世カンタクゼノス」の記事については、「ヨハネス6世カンタクゼノス」の概要を参照ください。

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