反逆罪の告発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 17:33 UTC 版)
アレンはバーモントに戻ったが、そこは不満の温床になっており、イギリス軍側に付くか新生アメリカ側に付くかで揺れ動いていた。バーモントはイギリス軍からも大陸軍からもかなり多くの脱走兵の避難所になっていた。アレンは、今日ではバーリントン市となったウィヌースキ川の下流デルタにあった自家で落ち着いた。アレンはバーモントの議会では活発に活動を続け、バーモント軍の将軍にも指名された。1778年、アレンは大陸会議の場に登場しバーモントが独立した国となったことを認識するよう促した。ニューヨーク植民地とニューハンプシャー植民地の間のバーモントに関する紛争が残っていたため、大陸会議はバーモントの独立を認めることに逡巡した。アレンは続いて、1780年から1783年にかけてカナダ総督と交渉を続け、バーモントを軍事的に守るためにイギリスの植民地の一つとして生き残りを図った。このために大陸会議はアレンを反逆罪で告発した。しかし、カナダとの交渉が明らかにバーモントにおける軍事行動を起こされた場合を想定したものであったので、告発が起訴されることは無かった。
※この「反逆罪の告発」の解説は、「イーサン・アレン」の解説の一部です。
「反逆罪の告発」を含む「イーサン・アレン」の記事については、「イーサン・アレン」の概要を参照ください。
- 反逆罪の告発のページへのリンク