サムイルの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:35 UTC 版)
「ブルガリア・東ローマ戦争」の記事における「サムイルの時代」の解説
その後、ブルガリアは東ローマの支配下に置かれたが、地方長官(マケドニア伯)の息子だったサムイルら4人の兄弟は、ヨハネス1世死後の東ローマの内紛に乗じてブルガリアで反乱を起こした。当初サムイルはバシレイオス2世の討伐軍も撃退し、東ブルガリアを占領していた東ローマ軍を駆逐するなど大きな成果を挙げたが、アナトリアの反乱を鎮圧して混乱を収めた東ローマ軍に徐々に領土を侵食されていき、ブルガリアの貴族や将軍の寝返りも相次いだ。1014年にサムイルはクレディオン峠の戦いで東ローマ軍に大敗北を喫し、その年の10月に病死した。サムイルの息子のガブリル・ラドミルはその後も東ローマと戦いを続けたが、彼も病死し、最後のブルガリア皇帝イヴァン・ヴラディスラフも戦死し、ブルガリアは1018年に東ローマに滅ぼされた。
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