安曇比羅夫とは? わかりやすく解説

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阿曇比羅夫

(安曇比羅夫 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/05 07:56 UTC 版)

 
阿曇比羅夫
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 天智天皇2年(663年)?
別名 比良夫、阿曇山背
官位 大錦中
主君 舒明天皇皇極天皇孝徳天皇→斉明天皇→天智天皇
氏族 阿曇連
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阿曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、飛鳥時代の人物。名は比良夫とも書く。阿曇氏(安曇氏)だが阿曇山背(安曇山背)と表記されるもの[1]もある。冠位大錦中

経歴

舒明天皇即位中に百済に使者として派遣されていたが[2]、舒明天皇13年(641年)天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使を伴って帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐[3]を自分の家に迎えている。篠川賢は、比羅夫はマエツキミであったとした[4]斉明天皇7年(661年)、高句麗の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌天智天皇元年(662年)、日本へ渡来した百済の王子・豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。大錦中に任じられた。

天智天皇2年8月27 - 28日663年10月4 - 5日)の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市穂高神社に安曇連比羅夫命[5]として祀られる。同神社の御船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは阿曇比羅夫の命日であるとされる。

脚注

  1. ^ 『日本書紀』皇極紀
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰編『コンサイス日本人名辞典 第5版』(株式会社三省堂、2009年)38頁。
  3. ^ 読みは「ぎょうき」
  4. ^ 篠川賢「古代阿曇氏小考」『日本常民文化紀要』第31巻、成城大学大学院文学研究科、2016年3月、37-62頁、ISSN 0286-9071CRID 1050282677566251008 
  5. ^ 読みは「あづみのむらじひらふのみこと」

関連項目




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