『雲陽軍実記』 天正8年成立とは? わかりやすく解説

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『雲陽軍実記』 天正8年(1580年)成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 01:51 UTC 版)

山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事における「『雲陽軍実記』 天正8年1580年成立」の解説

幸盛が先行して川に飛び込み、将員は幸盛が川の途中まで渡ったところで川に飛び込み決闘の場所へ向かった。 将員は大弓に矢をつがえて川を渡ろうしたため尼子軍の将、秋上伊織介(秋上宗信)、五月早苗介、藪中之助は「一騎討ち戦い飛び道具使用することは、臆病者所業だ。お互いに名乗りを上げての勝負なので、太刀による打ち合いで行うべきだ」と大声上げ抗議した。しかし、将員はその声を無視しそのまま30間(約550m~640m)ばかり川を渡っていったため、たまりかね宗信は、弓に大雁股の矢をつがえて解き放ち、将員の弓の弦(つる)を切り落とした攻撃阻止されたため将員は怒り壊され弓矢投げ捨て中州上がると、大太刀抜いて幸盛に切りかかった対する幸盛も太刀抜いてそれに応じ太刀打ち勝負となった一時(2時間余り戦うと、しだいに幸盛の力量勝り、将員は受け太刀となり追い詰められた。太刀打ち勝負に不利を感じた将員は「取っ組み合い勝負決めよう」と幸盛に提案し、幸盛もそれに応じたため、勝負組討へと変更になった組討勝負は、力で圧倒する将員が勝り、将員が幸盛を組み伏せる。しかし、組み伏せられた幸盛が、下から腰刀により将員の太股を2回抉り弱った将員を跳ね返してその首を切り討ち取ったため、幸盛の勝利となった。幸盛は「石見の国より出でたるを、出雲の鹿が討ち取ったもとより棫の木(タラノキ)は好物なり。我に続け」と叫びながら味方の陣に帰還した。 この勝利尼子軍の兵が勝どき上げると、対峙していた毛利軍の兵約500人は大い歯噛みをし、「味方目の前で討たれて、このままにして帰ることはできない。幸盛を逃がすな」と言って尼子軍めがけて攻撃仕掛けた。これに対し尼子軍弓矢応戦するも、毛利軍は怯まず川の真中まで進軍した。しかし、本丸より立原久綱率い2・300人の兵が尼子軍参戦し鉄砲隊100名による攻撃を行うと、毛利軍10人ばかりの死傷者出し撤退したまた、この戦いで幸盛も敵の弓矢に鎧を3矢射られ負傷した

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