『雲陽軍実記』 天正8年(1580年)成立
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「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事における「『雲陽軍実記』 天正8年(1580年)成立」の解説
幸盛が先行して川に飛び込み、将員は幸盛が川の途中まで渡ったところで川に飛び込み、決闘の場所へと向かった。 将員は大弓に矢をつがえて川を渡ろうとしたため、尼子軍の将、秋上伊織介(秋上宗信)、五月早苗介、藪中荊之助は「一騎討ちの戦いに飛び道具を使用することは、臆病者の所業だ。お互いに名乗りを上げての勝負なので、太刀による打ち合いで行うべきだ」と大声を上げ抗議した。しかし、将員はその声を無視し、そのまま30間(約550m~640m)ばかり川を渡っていったため、たまりかねた宗信は、弓に大雁股の矢をつがえて解き放ち、将員の弓の弦(つる)を切り落とした。 攻撃を阻止されたため将員は怒り、壊された弓矢を投げ捨て中州に上がると、大太刀を抜いて幸盛に切りかかった。対する幸盛も太刀を抜いてそれに応じ、太刀打ちの勝負となった。一時(2時間)余り戦うと、しだいに幸盛の力量が勝り、将員は受け太刀となり追い詰められた。太刀打ちの勝負に不利を感じた将員は「取っ組み合いで勝負を決めよう」と幸盛に提案し、幸盛もそれに応じたため、勝負は組討へと変更になった。 組討勝負は、力で圧倒する将員が勝り、将員が幸盛を組み伏せる。しかし、組み伏せられた幸盛が、下から腰刀により将員の太股を2回抉り、弱った将員を跳ね返してその首を切り討ち取ったため、幸盛の勝利となった。幸盛は「石見の国より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。もとより棫の木(タラノキ)は好物なり。我に続け」と叫びながら味方の陣に帰還した。 この勝利に尼子軍の兵が勝どきを上げると、対峙していた毛利軍の兵約500人は大いに歯噛みをし、「味方を目の前で討たれて、このままにして帰ることはできない。幸盛を逃がすな」と言って、尼子軍めがけて攻撃を仕掛けた。これに対し尼子軍は弓矢で応戦するも、毛利軍は怯まず川の真中まで進軍した。しかし、本丸より立原久綱率いる2・300人の兵が尼子軍に参戦し、鉄砲隊100名による攻撃を行うと、毛利軍は10人ばかりの死傷者を出し撤退した。また、この戦いで幸盛も敵の弓矢に鎧を3矢射られ負傷した。
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