隠岐為清の反乱の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/13 21:38 UTC 版)
隠岐為清が尼子再興軍に叛した理由については、確かな資料が残っていないためその真相は定かでない。『雲陽軍実記』や『太閤記』には叛乱の理由が記載されているが、その内容には相違がある。 『雲陽郡実記』によれば、先ほどの原手合戦において、弟の清実の恩賞が自分より勝っていたことを不平にもち、月山富田城主の天野隆重と内通し反乱を起こしたとされる。また、『陰徳太平記』にも「毛利家へ忠勤の験とし、此程尼子に組みせし罪科を謝せんと思い・・・」と記載されるように、為清が毛利軍として戦った記載がある。 『太閤記』によれば、出雲の国内の大部分が平定したというので、丹後海賊衆(奈佐日本助ら)は先に引き上げていったため、残った為清は心細くなって反乱を起こしたとされる。 また上記とは別に、まったく違う見解を示す研究もある。それは、為清は当初から毛利氏に味方しており、丹後海賊衆を隠岐で撃破後、美保関に渡来して攻め込んできたという説である。出雲渡航や原手合戦に協力したのは弟の清実であり、為清ではなかったとしている。
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