隠岐流二階堂氏
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鎌倉時代の二階堂行政の子・行村の流れで鎌倉時代中期から建武政権、室町幕府にかけて執事、評定衆、検非違使、高家として活躍した。細かく分けると、行村の子である元行を祖とする「隠岐家」、同じく行村の子である行義を祖とする「出羽家」、同じく行村の子である行久を祖とする「常陸家」、同じく行村の子である行方を祖とする「和泉家」、行義の子である行有から分かれた「備中家」(広義の「出羽家」に含まれる)に分けられる。 嫡流であった隠岐家は霜月騒動の影響で衰退し、本拠地を薩摩国に移して薩摩二階堂氏に発展する。薩摩二階堂氏の傍流は伊勢国深矢部郷に移り、室町幕府の奉公衆となっている。 これに対して、鎌倉時代末期の備中家当主である二階堂貞藤は政所執事としての活躍の他、吉野攻撃の総大将など武将としても活躍した。幕府滅亡後に赦免され建武政権で登用されたが、間もなく謀反の疑いで貞藤を含めた備中家のほとんどが処刑されて没落した。貞藤の兄の時藤の系統は足利尊氏に従って、成藤と行種が鎌倉府の政所執事となった。長禄4年(1460年)4月28日、将軍足利義政が御内書を下した須賀川二階堂氏の藤寿はこの系譜と推定される。出羽家と常陸家も貞藤一族の粛清に巻き込まれ、和泉家は観応の擾乱で足利直義に最後まで従って没落している。
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