隠岐水軍の最盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 04:37 UTC 版)
日本之介は但馬の動乱でかつての奈佐氏の栄光が失われると但馬で独自の影響力を持つ漁師衆を攻撃し、勢力を拡大した。「海賊衆」の異名はこれに由来するとも。 元亀元年(1570年)、山中鹿之助が尼子勝久を首領に尼子家再興を開始すると、毛利氏のいる山陰攻略のために日本之介に援助を要請し3,000の兵を率いて出雲に侵攻した。 日本之介は数百隻の船を率いて満願寺城を攻略し、月山富田城を海側から包囲した。 しかし天正元年(1573年)、毛利元就が毛利輝元・吉川元春が城を奪還するべく大軍を率いて攻撃し、鹿之助は重傷・日本之介は降伏し惨敗する。 以降吉川元春に中国支配の援助を要請され、山陰軍の一部として隠岐水軍は吸収されることとなった。
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