要害山城の陥落及び毛利軍の着陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)
「布部山の戦い」の記事における「要害山城の陥落及び毛利軍の着陣」の解説
2月7日(3月13日)、三沢・横田に在陣する毛利軍は掛合(現在の島根県雲南市掛合町)と馬木(現在の島根県仁多郡奥出雲町大馬木)に押さえとして兵を残すと、2月12日(3月18日)に比田を抜けて翌13日に布部へ陣を進める。同日、布部にある尼子再興軍の要害山城を攻略する。この要害山城は、尼子再興軍の将・森脇久仍が籠もる城であったが、兵数が300あまりと少なくまた小城であったため、毛利軍の来襲前に幸盛らの説得により久仍は退却し空城となっていた。要害山城を攻略した毛利軍は、布部山の尼子再興軍の陣を見ると同じく2手に軍を分け、大将である輝元はその後方に陣を敷いた(主要な参戦武将は、#戦いに参戦した武将を参照)。
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