甘粕景持とは? わかりやすく解説

甘粕景持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 12:51 UTC 版)

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甘粕 景持(長重)
川中島の甘粕近江守(歌川国芳画)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 享禄2年1529年?
死没 慶長9年6月26日1604年7月22日
改名 長重→景持→長重
別名 数馬介
戒名 巒樹院殿昌林盛繁居士
墓所 浄土宗栄松寺米沢市桜木町3丁目56
官位 近江守(受領名)
主君 上杉謙信景勝
出羽米沢藩士
氏族 河内源氏義国新田氏流甘粕氏
父母 父:甘粕泰重
黒金景信妹
長男加賀守尚政、次男・嫡子丹後守重政
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甘粕 景持(長重)(あまかす かげもち・(ながしげ))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将上杉氏の家臣で上杉四天王、越後十七将の一人。越後国飯塚[1]桝形城主、越後三条城主。

出自

甘粕氏は、以下のような諸説がある。

  1. 新田氏の一族で上野国群馬県)に住したが、新田氏の衰退後、上杉・長尾氏両氏に仕えたという説(『清和源氏甘粕家系譜』『源姓天河瀬氏系譜』『上杉謙信伝(布施秀治著)』『姓氏家系大辞典(太田亮著)』)
  2. 武蔵七党猪俣党の流れをくむ小野姓甘粕氏は新編武蔵風土記に武蔵国甘粕の甘粕野次廣忠として登場する(『姓氏家系大辞典(太田亮著)』)
  3. 新編相模風土記鎌倉郡條に、甘粕土佐守平朝臣清忠の名が文明9年(1477年)に、甘粕佐渡守平朝臣長俊が天正年間に大船村里正甘粕の桓武平姓甘粕氏として登場する(『姓氏家系大辞典(太田亮著)』)
  4. 近江国番蓮華寺過去帳に甘粕三郎左衛門尉清経が登場する(『姓氏家系大辞典(太田亮著)』)
  5. 上田庄の出身で、長尾為景に仕え、その子である景虎(上杉謙信)に仕えた(「温故の栞」第二巻五十七貢・「上杉三代記」上杉資料集下)
  6. 甲信国境白峰山中に住し、狩猟を生業としていたが、上杉謙信に見出され家臣となった(本朝武功正伝)

現代に伝わる甘粕家の家系図は、上記の『清和源氏甘粕家系譜』『源姓天河瀬氏系譜』に加え、『源姓甘粕近江守家系図』である、また、米沢藩の侍組の公式の席次表も甘粕家は源姓となっており、天正寺現存する位牌も甘粕近江守源長重となっていることから、河内源氏義国新田氏流甘粕氏としたい[2]

因みに、太田亮先生も新田氏流の説も書かれているが、田中弾正大弼重氏の四男甘粕備中守広氏に始まるとしており、現存する甘粕景持(長重)の甘粕家の家系図とも異なる流れとなっている。

なお、同じく上杉氏の家臣である甘糟景継は、甘粕景持(長重)の家系では遠縁と言われているが、甘糟景継の家系では、小野姓甘粕氏又は、源姓甘粕氏ではあるが、源頼光摂津源氏)の流れの家系図が伝わっており甘粕景持(長重)の河内源氏の家系図との一致はない。

生涯

生年は、源姓天河瀬氏系譜の記述に天文11年(1542年)には14歳であったという。ここから類推すれば享和2年(1529年)の誕生となる。越後長尾氏上杉氏に仕え、桝形城や三条城の城主であったといわれるが、桝形城に関しては、領有の経緯や真偽については不明な点が多く、『温故の栞』『越後古城記』『飯塚村誌』『上杉謙信伝(布施秀治著)』に景持(長重)の居城であったと記されるなど古くからの伝承がある一方、『源姓甘粕近江守家系図』『清和源氏甘粕家家譜』『源姓天河瀬氏系譜』では、三条城将であったとしか記されていない。

江戸時代の書物「信濃のさざれ石」には、天文16年(1547年)10月、主君である長尾景虎が髻山に城を築く際に、完成するまでの仮の砦として、長野県長野市豊野近辺に景持(長重)が三日城を築城したと言われている。

初名は長重であったが、長尾景虎から偏諱を受け景持と改名したと源姓天河瀬氏系譜に記されている。一方で、越後・会津・米沢藩時代の分限帳や現存する書状には長重の名前しか残されていないため、長尾景虎関東管領家の名跡を継いだ際に長重に戻したのではと推測される。

景持(長重)以前の書状・感状類の多くが、景持(長重)の長男・加賀守尚政が、本多忠勝の下へ出奔した際に持ち去られたために残っていない[3]

永禄2年(1559年)、上洛していた景虎が帰国した際に、越後の諸将は景虎の壮挙を祝して太刀を贈ったが、景持(長重)も「披露太刀之衆」(国人衆)の一人として金覆輪の太刀を進呈している。

永禄4年(1561年)、長尾景虎による関東管領上杉憲政を奉じた関東出陣に従い、北条氏康の籠る小田原城攻撃にも従軍した。また、景虎関東管領職と上杉の名跡を継承した鎌倉鶴岡八幡宮での式典の際には、景持(長重)は、宇佐美定満柿崎景家河田長親と共に御先士大将を務めている。

長尾景虎改め上杉政虎謙信)は、永禄4年(1561年)8月、川中島に出陣して甲斐国武田信玄と対峙した(第四次川中島の戦い)。この戦いで千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げて時間を稼いだ。その後、本体と合流し、撤退する上杉勢の殿軍をよく務めた。これらの活躍に、武田方は、謙信自ら殿軍となったと勘違いした者が多かったという。また景持(長重)について、『甲陽軍鑑』では「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」、『 松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と激賛している。なお、この戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を景持(長重)は、柿崎景家直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子不動尊の本尊として安置したという。

謙信没後は上杉景勝に仕えた。天正10年(1582年)、新発田重家の乱に際して、景勝から三条城将(6千62石、含む同心分)に命じられ、木場城の補佐や新潟城沼垂城攻略にあたり、城攻撃の兵站基地を守備する重責を担った。

天正12年(1584年)4月16日、景持(長重)は、下越地方の動向を景勝に報告するとして「三条城の普請をおこない、町屋を場内に入れて厳重に監視することにしたこと、新発田重家征伐に当たり、小国・黒滝・木場の人質を三条城に置くこと、白川(北蒲原郡)、新津(新津市)、安田(北蒲原郡安田町)、菅名(中蒲原郡村松町)、護摩堂(南蒲原郡田上町)、会津口の情勢などについて」奉行人の泉沢河内守久秀に報じた。

天正14年(1586年)5月3日、景持(長重)は、景勝の上洛に対し祝詞を申し上げ、景勝より「火急の際は一致団結して敵を撃退する」よう命じられた。

天正14年(1586年)8月18日、新発田重家征伐に際して、景持(長重)は、御鉄砲大将として大石源之丞元網、左近司伝兵衛らと共に笠堀に布陣した。新潟・沼垂で敵将を討ち取る戦功をあげ、10月29日に景勝から山吉玄番と共に戦功を賞賛され感状を受ける。

文禄4年(1595年)、家老・直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となる。

上杉氏慶長3年(1598年)の会津若松慶長6年(1601年)の米沢藩の2度の移封に従い、3千3百石(会津若松)・1千1百石(米沢藩)を領した。

また、慶長7年(1602年)には米沢に天正寺を開基した。天正寺には甘粕景持(長重)の位牌がある。

慶長9年6月26日(1604年7月22日)、米沢にて死去。曹洞宗龍言寺に葬られた。

寛永2年(1625年)に龍言寺の改装があり、嫡子・丹後守重政が、位牌を天正寺に移し、墓を栄松寺へ移した。

現在は、甘粕氏の歴代の墓は、栄松寺にある。

なお、子孫は代々米沢藩士として仕えた。

主に山形県東京都愛知県神奈川県静岡県に現存している。

甘粕事件で知られる甘粕正彦三菱信託銀行元社長甘粕二郎、陸軍中将・甘粕重太郎、陸軍大佐・甘粕三郎、マルクス主義経済学者・見田石介、東大名誉教授・見田宗介、漫画家・見田竜介、新潟大学名誉教授(考古学)・甘粕健トヨタキロルスカモーター(TKM)元上級副社長・甘粕健(たけし)も子孫である。

墓所・位牌

 

栄松寺・米沢市桜木町3丁目56・甘粕近江守景持(長重)一族の墓石群

甘粕近江守・位牌

 

甘粕近江守景持(長重)位牌・天正寺・米沢市中央7丁目4に安置


 

甘粕近江守景持(長重)開基・天正寺・米沢市中央7丁目4

伝・甘粕近江守甲冑

 

伝・甘粕近江守景持(長重)甲冑・長岡市個人像

家臣

『文禄三年定納動員目録』に記載されている家臣は、以下の通りである。

  • 青木清右衛門 (?~?)
  • 小幡喜兵衛 (?~?)
  • 小池半助 (?~?)
  • 山田弥左衛門 (?~?)
  • 福崎彦七郎 (?~?)
  • 丸山平左衛門 (?~?)
  • 片桐助平衛 (?~?)
  • 石黒孫次郎 (?~?)
  • 鈴木勘助 (?~?)
  • 平賀総次郎 (?~?)
  • 吉益縫殿助 (?~?)
  • 竹俣次郎右衛門 (?~?)

脚注

  1. ^ 新潟県長岡市
  2. ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、昭和50年3月1日 昭和50、p23,p41-55頁。 
  3. ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、昭和50年3月1日 昭和50、P51頁。 

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