甘粕重政とは? わかりやすく解説

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甘粕重政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 03:02 UTC 版)

 
甘粕 重政
時代 戦国時代末期 - 江戸時代
生誕 永禄10年1567年
死没 寛永7年6月25日1630年8月3日
改名 重元→重政
別名 総(惣)五郎
戒名 雙林院殿天誉台郭居士
墓所 浄土宗栄松寺米沢市桜木町3丁目56
官位 丹後守(受領名)
主君 上杉景勝定勝
出羽米沢藩
氏族 河内源氏義国新田氏流甘粕氏
父母 父:甘粕景持(長重)母:黒金上野介景信妹
兄弟 兄:加賀守尚政
黒金安芸守尚信娘
長男:右衛門信綱、次男・嫡子:数馬介忍重
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甘粕 重政(あまかす しげまさ)は、戦国時代末期から江戸時代にかけての武将上杉氏の家臣で上杉景勝・定勝の側近の一人。川中島の合戦で殿として名を馳せた甘粕近江守景持(長重)の次男・嫡子である。姓は「甘糟」と表記される場合もある。

出自

甘粕景持(長重)の欄を参照。

生涯

永禄10年1567年越後で生まれる、母は、黒金上野介景信の妹で重政を産み直ぐに亡くなったと思われる。

長男尚政が、いたため父の下を離れて豊臣旗下の武将として1,000石を賜り、豊臣秀次に仕える。

しかし、長男尚政が、代々の家宝・主君からの書状・感状を持ち去り出奔をしたため、嫡子として会津若松時代に父景持(長重)の下へ戻り父の在勤中に大小姓中に1,000石で勤仕する[1][2][3]

理由は及び加増時期は不明だが、米沢転封直前の分限帳から1,700石に加増されていることが分かる。[4](父景持(長重)の3,300石と合わせて甘粕近江守一族として5,000石となる)

慶長9年(1604年)8月、米沢で父景持(長重)が没し、父と同じ禄で1,100石で家督を相続する。

脚注

  1. ^ 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉氏分限帳』高志書院、2008年10月1日、上杉侯家士分限簿148貢,150貢, 会津御在城分限帳192貢,196頁。「148貢,150貢:一、三千三百石:甘粕近江守/ 150貢,196貢:一、千石:甘粕惣五郎」 
  2. ^ 花ヶ月盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、51頁。「源姓天河瀬氏系譜(当時:市立米沢図書館→現在:上杉博物館) 始関白秀次公二奉仕ス景持嫡子浪人二依テ皈参ノ上為嫡子秀次二於テ千石賜フ二ヨリ御当家二於テモ千石ヲ玉ハリ景持在勤中大小姓隊中に別勤」 
  3. ^ 花ヶ前盛明『桝形城』越路町教育委員会、1975年3月1日、44頁。「源姓甘粕近江守家系図(当時:上杉家所蔵→現在:市立米沢図書館) 会津ニテ大小姓秩千石賜之大小姓勤之…」 
  4. ^ 矢田俊文;福原圭一;片桐昭彦『上杉氏分限帳』高志書院、2008年10月1日、271貢,273頁。「271貢:一、三千三百石甘粕近江/273貢:一、甘粕惣五郎千七百石」 



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