『甲陽軍鑑』等における合戦の経過とは? わかりやすく解説

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『甲陽軍鑑』等における合戦の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

川中島の戦い」の記事における「『甲陽軍鑑』等における合戦の経過」の解説

上杉政虎は、8月15日善光寺着陣し、荷駄隊と兵5000善光寺残した。自らは兵13000を率いて更に南下続け犀川千曲川渡り長野盆地南部妻女山に陣取った妻女山川中島より更に南に位置し川中島の東にある海津城相対する武田信玄は、海津城武田氏家臣高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日甲府進発した。 信玄は、24日に兵2万率いて長野盆地西方茶臼山に陣取って上杉軍対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後軍記物語よるものである。実際に長野盆地南端の、妻女山とは千曲川挟んで対峙する位置にある塩崎城入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となったそのまま膠着状態続き武田軍戦線硬直避けるため、29日川中島八幡原横断して海津城入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城攻めることもでき、海津城落とせば戦局有利に進めることもできたが、攻めことはなかった。これについては、海津城攻略手間取っている間に武田軍本隊川中島到着許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。 膠着状態武田軍海津城入城した後も続き士気低下恐れた武田氏重臣たちは、上杉軍との決戦主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助馬場信房上杉軍撃滅作戦立案命じた山本勘助馬場信房は、兵を二手分ける、別働隊編成献策した。この別働隊妻女山の上軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原追いやり、これを平野部布陣し本隊待ち伏せし別働隊挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥きつつき)が嘴(くちばし)で潜む木を叩き驚いて飛び出した喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。 9月9日ユリウス暦では1561年10月17日現在のグレゴリオ暦換算する1561年10月27日深夜高坂昌信馬場信房らが率い別働隊1万2千が妻女山向い信玄率い本隊8000八幡原鶴翼の陣布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙いつになく多いことから、この動き察知する。政虎は一切物音立てることを禁じて夜陰乗じて密かに妻女山下り雨宮の渡しから千曲川対岸渡った。これが、頼山陽漢詩川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)場面である。政虎は、甘粕景持村上義清高梨政頼に兵1000与えて渡河地点配置し武田軍別働隊備えた当初はこの武田別働隊備え色部勝長本庄繁長鮎川清長ら揚北の諸隊含まれていたらしいが、これらの部隊八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的に甘粕隊のみとなったとされる10日ユリウス暦では1561年10月18日現在のグレゴリオ暦換算する1561年10月28日午前8時頃、川中島を包む深い霧晴れた時、いるはずのない上杉軍眼前布陣しているのを見て信玄率い武田軍本隊動揺した。政虎は、柿崎景家先鋒に、車懸り波状攻撃)で武田軍襲いかかった武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣が翼を広げたように部隊配置し、敵全体包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢い武田軍防戦一方で信玄の弟の武田信繁山本勘助諸角虎定初鹿野忠次らが討死武田本陣壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。 乱戦最中手薄となった信玄本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み放生月毛に跨がり、名刀小豆長光振り上げた騎馬武者床几しょうぎ)に座る信玄三太刀にわたり斬りつけ信玄床几から立ち上がる軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が騎馬武者の馬を刺すと、その場立ち去った。後にこの武者上杉政虎であると知ったという。 頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦い描いた絵画銅像では、謙信(政虎)が行包み僧体描かれているが、政虎が出家して上杉謙信名乗るのは9年後の元亀元年1570年)である。信玄謙信一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説ドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川家中とし、信玄謙信ともに騎馬信玄軍配でなく太刀持ち信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正天海目撃談記している。江戸時代作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守と書かれているまた、盟友関係にあった関白近衛前久が政虎に宛てて合戦後送った書状では、政虎自ら太刀振った述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれもぬけの殻妻女山攻め込んだ高坂昌信馬場信房率い武田軍別働隊は、八幡原急行した武田別働隊は、上杉軍しんがり務めていた甘粕景持隊を蹴散らし昼前午前10時頃)には八幡原到着した予定より遅れはしたが、武田軍本隊上杉軍攻撃に耐えており、別働隊到着によって上杉軍挟撃されるとなった形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川渡河して善光寺敗走した信玄午後4時追撃止めて八幡原に兵を引いたことで合戦終わった上杉軍川中島北の善光寺後詰として配置していた兵5000合流して越後国引き上げた。 この戦による死者は、上杉軍3000余、武田軍4000余と伝えられ互いに多数死者出した信玄は、八幡原勝鬨上げさせて引き上げ、政虎も首実検行った上で越後帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半上杉の勝ち、後半武田の勝ち」としている。合戦後書状でも、双方勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。しかし武田軍にとってはこの戦で家中調整役であった信玄実弟信繁討ち死にしてしまったことが後の義信事件遠因になったとする見解もある。 また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦参戦したとされる長尾藤景川中島合戦における上杉政虎戦術批判したとして政虎からの不興買っている。数年後に政虎(当時輝虎改名)は同じく家臣本庄繁長命じて景を成敗させているが、この際恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国武田信玄誘いに応じて上杉家謀反(本庄繁長の乱)を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦い後年の上にしこり残しているといえる。 この合戦対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容感状を7通発給しており自身旗本揚北衆中条色部中心にその戦功称えている。信玄側にも2通の感状確認されているが、柴辻俊六始め主な研究者は、文体書体筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。[要出典]

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