『甲陽軍鑑』等における合戦の経過
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「川中島の戦い」の記事における「『甲陽軍鑑』等における合戦の経過」の解説
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。 信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。政虎はこの時、信玄よりも先に陣を敷き海津城を攻めることもでき、海津城を落とせば戦局は有利に進めることもできたが、攻めることはなかった。これについては、海津城の攻略に手間取っている間に武田軍本隊の川中島到着を許せば城方との挟撃に合う可能性もあるためにそれを警戒して敢えて攻めようとしなかった可能性もある。 膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。 9月9日(ユリウス暦では1561年10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月27日)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。当初はこの武田別働隊の備えに色部勝長、本庄繁長、鮎川清長ら揚北の諸隊も含まれていたらしいが、これらの部隊は八幡原主戦場での戦況に応じて移動をしたらしく最終的には甘粕隊のみとなったとされる。 10日(ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。 乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという。 頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない。なお、上杉側の史料である『北越太平記』(『北越軍談』)では一騎討ちが行われた場所を御幣川の家中とし、信玄・謙信ともに騎馬で信玄は軍配でなく太刀を持ち、信玄は手を負傷して退いたとしている。また、大僧正・天海の目撃談も記している。江戸時代に作成された『上杉家御年譜』では、斬りかかったのは荒川伊豆守だと書かれている。また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。 政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘粕景持隊を蹴散らし、昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に後詰として配置していた兵5000と合流して、越後国に引き上げた。 この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。しかし武田軍にとってはこの戦で家中の調整役であった信玄の実弟信繁が討ち死にしてしまったことが後の義信事件の遠因になったとする見解もある。 また、これは『甲陽軍鑑』の記述とは関係ないが、上杉軍はこの合戦に参戦したとされる長尾藤景が川中島合戦における上杉政虎の戦術を批判したとして政虎からの不興を買っている。数年後に政虎(当時は輝虎と改名)は同じく家臣の本庄繁長に命じて藤景を成敗させているが、この際に恩賞が出なかったことを不服とした繁長は甲斐国の武田信玄の誘いに応じて上杉家に謀反(本庄繁長の乱)を起こしている。事実の程は不明であるが、この川中島の戦いは後年の上杉家にしこりを残しているといえる。 この合戦に対する政虎の感状が3通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。政虎はほぼ同じ内容の感状を7通発給しており自身の旗本や揚北衆の中条や色部を中心にその戦功を称えている。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め主な研究者は、文体や書体・筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると推測している。[要出典]
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