『甲陽軍鑑』における金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 16:14 UTC 版)
江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』においては金に関する記述が散見され、貨幣として使用されている金や金子、金銀、碁石金(ごいし金)などの用法が見られる。戦国期の武田氏に関係する一次資料においては「黄金」がもっとも多く使用されているが、『軍鑑』においては一切見られないことを特徴とする。 「碁石金」は巻16、巻18において合戦における褒美として与えられた二例が記され、巻16では信玄が陣中で軍功にあったものに与える褒美として証文や刀脇差、羽織などとともに碁石金を挙げている。また、巻18では元亀元年(1570年)頃に推定される伊豆における合戦において、三河浪人河原村伝兵衛に対し信玄自ら三すくいの碁石金を与えたとする逸話を記している。 「金子」は巻8における逸話に記される。山県昌景の同心であった伊勢牢人の「北地」が領地替えを望むが同輩の「大場」による不正のため聞き届けられずに自害した。これを知った信玄が大場を成敗し、北地の葬儀を行った青白寺(山梨市の清白寺か)に使者を遣わし供養のため金子20両を収めたという。年代は不明であるが、武田氏が領国内において金を使用する永禄8年(1565年)以降であると考えられている。寺社に対する祈祷や供養のための金の使用は文書においても確認されるが、この逸話における20両という金額は多額であるため、疑問視されている。 巻9では信玄と山本勘助の対話において金子が登場し、道具を購入するための交換手段として機能した金の使用事例が確認される。年代は不明であるが、山本勘助の死亡時期や交換手段としての金の使用事例から永禄4年(1561年)以前・1570年前後と推定される。 巻18では金の貸借に関する逸話が記され、甲府三日市場の「しほ屋弾左衛門」が尊躰寺脇坊の僧「ほうじゅん」から金子を借りていたが返済しなかったため、ほうじゅんが弾左衛門の下女を奪い、訴訟が発生したという。甲斐における金の借入は文書上からは元亀3年(1572年)12月に僧願念が武士である末木家重から10両の黄金を借り入れた事例が確認され、巻18における逸話の年代は不明であるが、同時期のことであったと考えられている。 巻20では勝頼期の天正6年(1578年)3月に発生した越後上杉家における御館の乱・甲越同盟の締結に際した上杉景勝から勝頼・勝頼側近の長坂光堅・跡部勝資に対する金子の贈答が記され、勝頼には一万両、長坂・跡部には二千両の金子が贈られたという。甲越同盟における景勝方からの黄金の贈答は文書の上からも確認され、金額や長坂・跡部に対する賄賂の実否に関しては議論があるが、甲越間の婚姻同盟に際しては実際に多額の黄金の贈答があったと考えられている。 「金銀」は巻5、巻15、巻17などに記され、金銀が恩賞、蓄財、礼儀などの使用事例が確認され、文書における使用事例と符合することが指摘される。 これらの事例から『甲陽軍鑑』における金の使用事例はおおむね文書におけるそれと符合するが、年代や金額については検討を要することが指摘される(海老沼(2013)、p.45(56)。年代に関しては山本勘助や北条早雲(伊勢宗瑞)など貨幣としての金が普及する以前の時期の逸話として記されるものもあるが、総じて武田領国において金が交換手段として使用されはじめた1570年代前後の事例が多いことが指摘される。
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