弓削是雄とは? わかりやすく解説

弓削是雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 16:09 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
弓削是雄
時代 平安時代前期
生誕 嘉祥元年(848年)?
死没 延喜8年5月6日908年6月7日)?
官位 従五位下陰陽頭
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族 弓削氏
父母 父:弓削安人
テンプレートを表示

弓削 是雄(ゆげ の これお)は、平安時代前期の貴族陰陽師のち宿禰正六位上・弓削安人の子。官位従五位下陰陽頭

経歴

清和朝前半に陰陽寮陰陽師を務め、貞観6年(864年)父・安人らと共に本貫播磨国飾磨郡から河内国大県郡に改める[1]。清和朝後半は陰陽允・陰陽権助と引き続き陰陽寮の官人を務め、貞観15年(873年)には再び本貫を移し右京三条二坊に貫附されている。

貞観19年(877年)正月に陽成天皇の即位に伴って従五位下に昇叙され、同年12月には連姓から宿禰姓に改姓する。また同年4月1日に夜間の日蝕が発生したが、事前に中務省から奏上があり廃務が行われた。これに関して、事前に官司が夜間の日蝕を奏上する事への是非について暦博士に下問があった。これに対して、陰陽頭兼暦博士・家原郷好と共に、夜間の日蝕が発生する際には予め中務省に報告がなされる例となっている旨の言上をしている[2]

元慶6年(882年)内位の従五位下に叙せられ、仁和元年(885年陰陽頭に昇格した。一説では延喜8年(908年)5月6日卒去。享年61。

説話

占いの技術に定評があったらしく、あるとき同宿者に対する夢占いを行って危機を知らせてその命を救った、との説話が『今昔物語集』にある[3]

今は昔、穀蔵院の使として封戸を催促するために東国に行っていた伴世継は、帰京の途中で近江国の勢多駅に宿泊したが、ちょうど同国国司から大属星を祭るために呼ばれていた、陰陽師天文博士弓削是雄と同宿した。
世継はその夜に悪夢をみた。目が覚めてから是雄に夢の吉凶を占ってもらったところ、是雄は「明日家へ帰ってはいけない。あなたを殺そうとする者が家にいる」と言う。しかし、世継は「長く東国に行っていたので早く家に帰りたいし、多くの公物・私物を持っていてさらに従者も引き連れているので、ここに留まることなどできない、どうやったら難を避けることができるか」と尋ねる。是雄は「どうしても帰りたいと思うのなら、あなたを殺害しようとする者は家の丑寅の角の場所に隠れている。そこで、あなたが家に到着したら従者をそのまま残しておいて、あなた一人で矢を持って丑寅の角の隠れ場所になりそうな所に向かって弓を引いて、『私が東国より帰るのを待って、今日私を殺害しようとしていることはわかっている。早く出てこい。出でこなければ速やかに射殺してやるぞ』と言いなさい。そうすれば、法術で隠れていようとも、自然と顕れ出てくるでしょう」と教えた。
世継は是男の助言を得て、翌日京に急ぎ戻った。家に到着すると家の者は「お帰りなさいませ」と非常にやかましい大声をあげた。世継は従者を家に入れないまま待機させておいて、矢を持って丑寅の角を見回すと一間ほどの場所に菰が掛けてある。「ここだな」と思って、弓を引いて差し当てて「私が京に戻るのを待って、今日私を殺害しようとしていることはわかっている。早く出てこい。出でこなければ速やかに射殺してやるぞ」と言った。
そうすると、菰の中から一人の法師が出てきた。すぐに世継は従者を呼んで法師を捕らえさせて強く問うと、法師は「隠しておくべき事でもない、私の主人の御房は年来この殿の上(世継の妻)と通じていた。今日、世継が帰京することを聞いて『帰宅をしたところを必ず殺して』と殿の上が仰ったので隠れていたのだが、事前に知っていたとは」と言った。
世継はこれを聞いて、前世の果報のおかげで高名な是雄と同宿して命が救われたことを喜んだ。また、是雄の占いが的中したことを感じて、まず是雄の方向に向かって拝んだ。その後、法師を検非違使に引き渡し、妻とは離縁した。
これを思うに、年来の妻と言っても油断してはいけない、女性の心はこういったこともある。また、是雄の占いは不思議である。昔はこのようなものすごい陰陽師がいたものである、と語り伝えたことだ。

官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

  • 父:弓削安人[5]
  • 母:不詳

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ この時の位階は従八位下
  2. ^ 『日本三代実録』元慶元年4月1日条
  3. ^ 『今昔物語集』巻24第14話「天文博士弓削是男占夢語」
  4. ^ 鈴木真年『諸系譜』第13冊,稲生 弓削宿禰
  5. ^ 『日本三代実録』貞観6年8月8日条

出典


弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 19:32 UTC 版)

陰陽師の一覧」の記事における「弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ?」の解説

平安時代中期清和天皇宇多天皇の頃に活躍した陰陽師、滋丘川人弟子怪僧と言われ道鏡とは同族で、式占達人であったといわれている。藤原有陰(ふじわらのありかげ)に招かれ近江赴いた際、穀院の使者である伴世継(とものよつぎ)と行き会い悪夢見たと言う世継が弓削是雄に占ってもらい対策をしてもらって九死に一生得たという話(『今昔物語集』天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」)や、陰陽頭在任時に60歳過ぎていまだに試験合格せず僧侶の位がなかなか得られない修行者憐れんで、何とか試験合格させてやろうと呪術用いて立会試験官排除してしまい、仲の良かった三善清行一存でその高齢修行者合格させてやったという話(『善家異説』)などが知られている。

※この「弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ?」の解説は、「陰陽師の一覧」の解説の一部です。
「弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ?」を含む「陰陽師の一覧」の記事については、「陰陽師の一覧」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「弓削是雄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「弓削是雄」の関連用語

弓削是雄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



弓削是雄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの弓削是雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの陰陽師の一覧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS