張作霖への不満
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1924年(民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発し、郭松齢は鎮威軍第3軍副軍長兼第6師師長に任ぜられる。郭の貢献もあって、奉天派は勝利を収めた。張学良と郭松齢は京楡駐軍の正副司令に任命されている。しかし、この時に鎮威軍総司令部参謀長(総司令は張作霖)となった楊宇霆は、郭を最大の政敵と見做してその排除を目論むようになり、両者は対立を深める。また郭は張作霖に対しても、その戦争継続方針に不満を抱いていた。これらのことから、第2次奉直戦争の間に郭は早くも馮玉祥と連絡を取り合い、張作霖打倒を図る動きを見せている。 1925年(民国14年)10月、郭松齢は日本を軍事視察のため訪問した。しかしこの時、軍事的拡張を続ける張作霖の後ろ盾に日本があり、張作霖が日本に様々な便宜を図っていると知る。そのため、郭はますます張作霖と日本への不信、反感を募らせた。同月帰国し、張学良の委託を受け天津で第3方面軍(3個軍で構成)を組織する。あわせて郭は、第10軍軍長に任命された。 11月、奉軍と馮玉祥率いる国民軍との衝突が発生すると、郭松齢は張作霖から国民軍討伐を命じられたが、郭はこれを拒否。黄花崗七十二烈士林覚民の兄で中華民国臨時約法を制定したことで知られていた林長民を秘書長とし、張作霖・楊宇霆を討伐しようと図った。しかし、林長民は1924年に『日本人に告ぐ』(原題:『敬告日本人』)という書を公表して日本の対中政策を批判していた為、郭松齢も関東軍に敵対的と看做されることになった。さらに郭松齢は張学良をも擁す計画を抱いていた。しかし張学良は、郭の内戦停止という主張には賛同していたものの、兵変実行には反対であった。
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