張作霖の片腕に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 16:36 UTC 版)
1919年(民国8年)7月、張作霖の推薦により、孫烈臣は黒竜江督軍に任命された。この当時は、ロシア革命の影響もあって中露国境は極めて不安定な情勢にあった。孫烈臣は辺境で活動する赤軍や白軍から中国領侵入や要求提示などに遭ったが、いずれも冷静に退け、大過なく対処している。また、黒竜江省内の開墾やアヘン取締りにも尽力し、一定の成果を残した。 1921年(民国10年)3月、孫烈臣は吉林督軍兼東省鉄路護路軍総司令に異動した。翌年4月、第一次奉直戦争が勃発すると、孫烈臣は奉軍副総司令として奉天を守備した。張作霖が敗北して東三省に戻ると、孫烈臣は張作霖の東三省自治の宣言に与し、東三省保安副司令に任ぜられた。張作霖は直隷派への報復のため軍事改革に取り組み、東三省陸軍整理処を創設した。同処統監には孫烈臣が任命され、副統監姜登選・韓麟春・保安司令部参謀長張学良・副参謀長郭松齢の尽力もあって、顕著な改革成果を得ることになる。 しかし、孫烈臣は吉林の省政に取り組むだけの時間がなくなり、次第に吉林では匪賊の台頭など混乱が発生するようになる。1923年(民国12年)11月、ようやく孫烈臣は長春に戻って省政に取り組んだが、効果は限定的であった。さらに同年中に病を得て重篤となり、後任の吉林督軍に張作相を推薦して自らは療養生活に入っている。 1924年(民国13年)4月25日、奉天にて病没。享年53(満51歳)。
※この「張作霖の片腕に」の解説は、「孫烈臣」の解説の一部です。
「張作霖の片腕に」を含む「孫烈臣」の記事については、「孫烈臣」の概要を参照ください。
- 張作霖の片腕にのページへのリンク