吉林の省政
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1928年(民国17年)6月4日の張作霖爆殺事件後に、張作相は張学良を擁立する。易幟を経た同年12月31日、東北辺防軍副司令長官兼吉林省政府主席に任じられた。張作相の民国13年以来の8年間の吉林省政は評価が高く、吉海鉄道を建設し、吉林大学を創設して、人民の為に浄水場の建設などもした。1931年(民国20年)9月の満州事変後に辞職し、1933年(民国22年)、天津の英国租界に寓居した。 その後、日本は張作相を籠絡し、満州国の要職に就くよう説得したが、張作相はあくまで拒絶した。国共内戦中の1948年(民国37年)10月、蔣介石から南京へ逃れるよう勧められたが、張作相はこれに従わなかった。そのため、同年11月に錦州が陥落した際に人民解放軍に捕えられてしまう。ところが、中国共産党は直ちに張作相を釈放し、しかも天津まで車で送り出している。その後、蔣介石から国民政府国策顧問となるよう再び誘われたが、張作相はこれも拒否した。 1949年(民国38年)5月7日、張作相は心臓病を患い、天津の寓居にて病死した。享年69。
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