張作霖と共に死す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:33 UTC 版)
1926年(民国15年)、中国国民党の北伐への対策を巡り、呉俊陞と張作相は保境安民を主張した。しかし張作霖は、張宗昌の強硬意見に従う。同年12月、張作霖は、張宗昌・孫伝芳により安国軍総司令に擁立された。翌年6月、呉らは張作霖を陸海軍大元帥に推戴し、呉は安国軍第7軍団軍団長に任命された。 10月には、呉俊陞は東三省辺防司令兼保安総司令に任命された。さらに、陸軍上将に昇進し、興威将軍の位を授与されている。しかしこの時機には、東三省でも反北京政府・反日のデモや暴動が頻発している。呉は武力によりこれを強硬に鎮圧したが、結局は奉天派の威信をさらに損なっただけであった。 1928年(民国17年)6月4日、国民党の北伐軍に敗北して逃走する張作霖に同行していた呉俊陞は、皇姑屯で関東軍に列車を爆破され、揃って死亡した(いわゆる張作霖爆殺事件)。享年66(満64歳)。
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