張作霖の下での活躍
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同年6月、袁世凱が死去すると、10月に朱慶瀾は広東省長に任命された。しかし、赴任後の朱は、南北対立だけでなく、南方政府内における孫文派と桂系派との内紛にも巻き込まれる複雑な立場に追いやられている。その中で朱は、次第に孫文への支持を強めていく。朱自身は1917年(民国6年)に下野したものの、その際に軍権を孫文派の陳炯明に委ねた。 その後、孫文の推薦を受けた朱慶瀾は、1922年(民国11年)10月に張作霖から中東鉄路護路軍総司令に任命される。同年12月には、東省特別行政区(中東鉄路沿線地域)行政長官も兼任した。朱は、ソ連との外交交渉も支援し、1924年(民国13年)9月には「中華民国東三省自治政府とソビエト連邦の協定」(いわゆる「奉ソ協定」。中国では「奉俄協定」)の締結に貢献した。また、内政でも産業振興や現地商人の交易権保護に成果をあげている。しかし、1924年(民国13年)10月、第2次奉直戦争を勃発させた張に反対して辞任した。
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