列車爆破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 10:18 UTC 版)
1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蔣介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯の京奉線と満鉄連長線の立体交差地点を10km/h程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300kgが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。 同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、張作霖の乗っていたのは8輌目であったが、爆破によりその前側車輌が大破し、先頭方の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半は火災を起こした。8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していたが、呉が張と儀我に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ、爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。 車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は、爆発の直後四方八方にやたらと発砲し始めたが、日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。 近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたが、この時には「何、大丈夫だ」と答えていたが、その後張は虫の息ながら「日本軍の仕業だ」と言い遺したという。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ大師府に入った。奉天城内の大師府にかつぎこまれたときには絶命していたが、絶命したことは秘密にされ、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した。 また警備・側近ら17名が死亡した。同列車には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また、山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。
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