他律性論(たりつせいろん)
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「朝鮮の歴史観」の記事における「他律性論(たりつせいろん)」の解説
朝鮮の歴史は、常に外部の勢力によって他律的に動かされてきたという主張である。檀君を否定し、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、漢四郡など朝鮮の出発点を中国の支配に置き、以後も中国の属国であったとする。更に、朝鮮半島南部では任那が日本の支配地域であったとする歴史認識。 三品彰英は、戦後の韓国の研究者からは、朝鮮史が黎明期から外国勢力の支配下で成り立っていただけではなく、朝鮮史の全過程を通じて外国勢力の支配に貫かれており、朝鮮史の対外関係だけでなく、朝鮮国内の政治・文化の諸情況も外国勢力が支配するようになり、朝鮮史全体が外国勢力への依存的・事大的なものであり、ひいては朝鮮人の民族性までが事大的・依他的・依頼的な性格になったと主張した研究者として、指弾されている。三品彰英は、自著『朝鮮史概説』(弘文堂書房、1940年)の序説で、「朝鮮史の他律性」という題を付け、朝鮮史の性格を付随性・周辺性・多隣性として、朝鮮史を規定する最大の要因は、朝鮮半島という地理にあり、アジア大陸に付随する半島は、政治的・文化的にも大陸で起きた変動の影響を受け、周辺に位置することにより本流から離れてしまう半島の付随性を主張し、「このように周辺的であると同時に多隣的であった朝鮮半島の歴史においてこの2つの反対作用が、時には同時に時には単独で働き、複雑極まりない様相をもたらした。東洋史の本流から離れているのに、いつも1つ或いはそれ以上の諸勢力の影響が輻輳的に及んだり、時には2つ以上の勢力の争いに苦しめられたり、時には1つの圧倒的な勢力に支配されたりした」として朝鮮史の多隣性を指摘し、朝鮮では政治文化で弁証法的な歴史発展の足跡が甚だしく欠乏してしまい半島的性格を持つ朝鮮は、古くから中国の典礼主義的・主知主義的な支配を受け、理想的な蕃夷として褒めたたえられ、次は満州・モンゴルの征服主義的・主意主義的な侵略を受けたが、それは「政治と分化を伴わない力だけの征服」であり、この半島的性格は事大主義という朝鮮史の性格の形成につながり、「絶対的存在とされた国の勢力に従い、その権威の下で藩属になり、依存主義によって国の維持を図ったこと」を規定し、朝鮮史における事大主義は、親明派・従清派・親日派・親露派などを生み、政治文化では宗主国を模倣する他律的な歴史を展開するしかなく、事大主義的・他律主義的な歴史を展開してきた朝鮮が、日本の情に抱かれることで、他律主義的な朝鮮史を克服できるとする。 最後に日本だ。…要するに、我々の古代朝鮮経営においても、また最近世のそれにおいても見られるように、それは征服主義でもなく、利己主義からのものでもない。昔は百済や任那を保護し、それによって彼らに国を樹立させた。それは真に平和的かつ愛護的な支配だと言うべきである。蒙古のように意志的で征服的なものでもなく、支那のように主知的で形式的なものでもなかった。…日本のそれは主情主義的で愛好主義的で、彼我の区別を越えたより良い共同世界の建設を念願したものであった。…優れた歴史世界を建てた日本が、この同胞として彼らを抱え込んだのは、彼らをその古里に呼び戻すことである。ここに初めて本来の朝鮮としての再出発がある。…今、その歴史を見ると、朝鮮は支那の智に学び、北方の意に服し、最後に日本の情に抱かれ、ここに初めて半島史的なものから脱する時期を得たのである。 — 三品彰英、朝鮮史概説、p6-p7 批判に対しては、『三国史記』も翻訳している井上秀雄が「要求の正当さや強烈さに負けて、迎合的な応えをするのは、はるかに大きな害毒を社会に流すのではないか」と述べ、室谷克実もこれらを皇国史観への過剰反応とみて「隣国との関係史は、隣国を知る上でも、自国を知る上でも重要だ。それが、大声を出す暴力的な集団の圧力や、隣国との政治的妥協や配慮、あるいは研究者の個人的(自虐)嗜好などによって歪められることがあってはならないのだ」と述べている。
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