ファナリオット時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:34 UTC 版)
「ヤシ (ルーマニア)」の記事における「ファナリオット時代」の解説
18世紀から19世紀初めにファナリオットがモルダヴィアを支配する時代になると、ギリシア文化が優勢になり、ギリシア・アカデミーが開かれるが、このような文化的伝統と背景の中から、グリゴレ・ウレケ(Grigore Ureche)、ミロン・コスティン(Miron Costin, 1633年 - 1691年)のような年代記作者、ディミトリエ・カンテミール公のような文人が出た。 1821年、ヤシはギリシアの独立を目差す秘密結社フィリキ・エテリアによる蜂起の根拠地となり、そのためにイェニチェリ軍による報復的な破壊を被った。 しかし、それ以後に始まるモルダヴィアの近代化運動の指導的立場の人物も、この地で活躍した。モルダヴィアにおける近代教育の創始者ゲオルゲ・アサキ(Gheorghe Asachi)、1840年の国民劇場の創立に貢献した詩人ヴァシレ・アレクサンドリ、1848年における革命的な運動と、1859年のワラキアとの統一の指導的人物である歴史学者ミハイル・コガルニセアヌ(Mihail Kogălniceanu)、ルーマニア公アレクサンドル・ヨアン・クザなどである。
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