フロリダと政治的対立 1777年-1778年
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「ロバート・ハウ」の記事における「フロリダと政治的対立 1777年-1778年」の解説
ハウの指揮のやり方は直ぐに不満を生じさせ、1777年8月20日、サウスカロライナ植民地議会がその領域内で兵士を指揮する権限について抗議した。それでも同年10月20日には少将に昇進し、大陸軍でこの位まで上がった唯一のノースカロライナ出身者となった。ハウはその指揮下の部隊を構成する各植民地の文民指導者に従うことが多く、植民地役人との紛争について大陸会議に解決を委ねることも多かった。その中でも、ジョージア植民地政府と初期にあった紛争は、知事が戦闘の間に自国出身の部隊を指揮すると主張したことだった。大陸会議は公式見解を求められたときにハウの味方をし、そのような戦闘中も民兵の指揮権はハウに預けるべきだと考えた。しかし事態は複雑であり、民兵の費用について大陸会議が出費する相手は軍隊の士官ではなく植民地に対してであり、ハウは資金について植民地政府に頼るしかなかった。 1778年、チャールズ・リーが立案した作戦に従ってイギリス領西フロリダを襲う行動を命じられた。しかしこの作戦をハウは嫌っていた。1777年に行われた前回の遠征には直接参加しておらず、この遠征は直ぐに失敗に終わっていた。大陸会議はハウの遠征に関する心配を無視し、ジョージアの民兵隊と合流してフロリダに侵入するよう命じた。フロリダに入った合同部隊は物資と特に奴隷の不測のために歩みが鈍かった。この奴隷は南へ進軍するために道路を建設し、土地を切り開いていく機能を果たすべくハウが要請したものだった。 1778年6月29日、ハウはジョージアとフロリダの境界の一部をなすセントメアリーズ川沿いのトーニン砦を占領した。ジョージアの知事ジョン・ハウストンは大陸軍の将軍に対して、その民兵隊の指揮を任せることを拒み、ハウの作戦会議に参加することを辞退した。さらに事態を悪くしたのは、サウスカロライナ民兵隊がアンドリュー・ウィリアムソン大佐の指揮でジョージアに到着したことであり、ウィリアムソンもその部隊をハウが指揮することを拒んだ。この小さな侵略から間もなく、イギリス軍は援軍を得て、サバンナに圧力をかけてきた。1778年7月14日までに、ハウはその部隊を北に引き返させ、チャールストンに戻るしかなくなった。この遠征の失敗についてハウはその責任の大半を負わされ、ジョージアの役人は大陸軍の指揮層に非難を投げかけ、大陸会議は以前にハウの民兵隊指揮権限を認めていたにも拘わらず、ジョージア民兵隊の統制が取れなかったことを理解できなかったことで事態は悪化した。
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