民兵への警告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:50 UTC 版)
「レキシントン・コンコードの戦い」の記事における「民兵への警告」の解説
ドーズは馬で南の陸路を通りボストン・ネックを横切りグレート・ブリッジを渡ってレキシントンに向かった。リビアはまずチャールズタウンに合図を送るように指示してから、北の水路を通って出発した。チャールズ川を手漕ぎボートで渡り、停泊しているイギリス海軍の軍艦HNSサマーセットの横をすり抜けた。この時間帯に船で渡ることは禁じられていたが、リビアは無事にチャールズタウンに上陸し、馬でレキシントンに向かい、イギリスの偵察兵を避けながら途上にある家々に警告を触れて回った。警告を受けた家の者達とチャールズタウンの愛国者達は北へ向けて他にも伝令を放った。 リビアとドーズがレキシントンに着くと、ハンコックとアダムズとの4人でそこに集まっている民兵の状況について議論した。彼らはボストン市を離れた軍隊は2人を逮捕するだけの目的にしては大きすぎるので、ねらいはコンコードにあると結論づけた。レキシントンの人達はあらゆる方向に騎馬の伝令を放った(なぜかは分からないが南のウォルサムだけははずされた)。リビアとドーズもコンコードへ向かうことになった。二人は午前1時にサミュエル・プレスコットに会った。リンカーンで3人は第5連隊のミッチェル少佐指揮するイギリス軍偵察兵に遭遇し、プレスコットのみが追手を逃れてコンコードに警告するために向かった。コンコードからも騎馬の伝令が放たれた。 リビアとドーズは他の伝令達と共に、火薬警鐘の後、何ヶ月も前に慎重に取り決めておいた柔軟な「警告と集結」のしくみを始動させた。「警告と集結」は緊急時に広く注意を伝達し素早く民兵を集結させるための仕組みであり、以前の情報網を更に改良していた。植民地の人々は開拓時代のインディアンとの戦いの中で早くからこのような仕組みを使っており、その後のフレンチ・インディアン戦争ではむしろ廃止されていた。伝言を運ぶ早馬に加えて、鐘や太鼓、合図の鉄砲、大かがり火、さらにトランペットを使って、町から町へ急報を伝え、500名以上のイギリス軍正規兵がボストンを離れたから民兵を集めよという意志が東マサチューセッツの多くの村々にまで伝えられた。この素早い警告は十分な数の非正規兵を集めて、その日後刻にイギリス軍に重大な損害を与えるための重要な役割を果たした。サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックは最終的に安全な場所、まずはバーリントンへ、後にビラーリカに移動した。
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