ヤロスラヴの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:07 UTC 版)
「モンゴルのポーランド侵攻」の記事における「ヤロスラヴの戦い」の解説
1245年にはガリツィア軍にポーランド王国・ハンガリー王国が加わり、ヨーロッパ側の最前線であったハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のウクライナ。当時、ルーシと呼ばれた地方)へ侵攻し(ヤロスラヴの戦い(ウクライナ語版、ロシア語版、ポーランド語版))、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスに臣従した。1246年 ライタ川の戦いでハンガリー王国のベーラ4世とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公フリードリヒ2世を敗死させる。1248年 バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世がオーストリアなどの支配権を獲得。1250年12月13日に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が死去。
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