ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチとは? わかりやすく解説

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ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/26 02:53 UTC 版)

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ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチ (古ルーシ語:Василько Романовичъウクライナ語:Василько Романович、意味:ヴァスィーリコ、ロマンの子、1203年1269年)はリューリク朝の公の一人で、ベルズ公国の公(在位、1207年1211年)、ベレスチャ公国の公(在位、1221年1231年)、ルーツィク公国の公(在位、1229年 - 1238年)、ヴォルィーニ公国の公(在位、1238年1269年)、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の三代公(在位、1264年-1269年)である。

概要

ヴァスィーリコは次男として、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の初代公、ロマン・ムスティスラーヴィチ東ローマの貴族の娘、アンナの間に1203年に生まれた。

父の死後、国内は内乱に陥ったため、幼いヴァスィーリコは母と兄ダヌィーロと共にポーランドへ逃げ、ポーランドとハンガリーの君主の保護を受けた。内乱の末、ヴォルィーニ公国はポーランドに占領され、ハールィチ公国ハンガリーに征服された。ヴァスィーリコ、1221年に形の上でベレスチャで小さな領地を貰った。

1238年まで兄弟はポーランドとハンガリーと手を切り、父のハールィチ・ヴォルィーニ大公国を取り戻した。兄ダヌィーロはハールィチ公国を、弟ヴァスィーリコはヴォルィーニ公国を支配するようになった。1245年、兄弟の軍勢はヤロスラヴの戦いウクライナ語版ロシア語版ポーランド語版でハンガリー・ポーランド・ハールィチ公国の野党の連合軍に勝利し、自らの政権を安定させた。

1250年代、ヴァスィーリコは兄の反モンゴル政策に参与していた。

1264年、ヴァスィーリコはダヌィーロの死に伴ってハールィチ・ヴォルィーニ大公国の三代公となった。1269年に死去した。

妻子

1人目の妻はウラジーミル大公ユーリーの娘ドブラヴァ。2人目の妻はクラクフ公レシェク1世の娘ヘレナ。子には以下の人物がいる。

ドブラヴァの子

ヘレナの子

先代:
ロマン
ヴォルィーニ公
1238年 - 1269年
次代:
ヴォロディームィル
先代:
ダヌィーロ
ハールィチ・ヴォルィーニ大公
1264年 - 1269年
次代:
レーヴ1世

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