ヤロスラヴリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:49 UTC 版)
「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」の記事における「ヤロスラヴリの戦い」の解説
モンゴル侵攻後も、依然として、ロスチスラフはガーリチ獲得の意志を示し、また、ガーリチのボヤーレの中には、ダニール、ヴァシリコ兄弟を認めず、ガーリチ、ヴォルィーニ領内の土地を押収しようとするものがあった。1243年、ロスチスラフはハンガリー王ベーラ4世の娘(おそらく名はアンナ(ru))を妻に迎えた。一方、ダニール、ヴァシリコ兄弟は、ポーランドにおいて甥のボレスワフと争うコンラトを支援し、1243 - 1244年間に、二度の遠征軍率いてポーランドに赴いている。 1245年、ロスチスラフはハンガリー軍、ポーランド軍(コンラトとは別の派閥)と共に軍を発した。ペレムィシュリを占領したロスチスラフはヤロスラヴリ(ru)を包囲した。同年8月17日、ダニールとロスチスラフの両軍の間で会戦(ru)が行われた。年代記によれば、ダニールにはポロヴェツ族が合流していたが、コンラト、また援軍として参加したリトアニア大公国の軍勢は、ヤロスラヴリの会戦までにダニールと合流できなかった。しかし、この会戦はダニールの圧倒的な勝利となった。反ガーリチ派のボヤーレ・ウラジスラフ(ru)(コルムレチチ家のウラジスラフとは別人)、ハンガリー軍司令官フィリャ(ru)(1220年代にハンガリー領だったガーリチを防衛したのと同一人物)は捕らえられて処刑された。ロスチスラフはハンガリーへ亡命した。ミハイル、ロスチスラフ親子との闘争に勝利したダニール、ヴァシリコ兄弟は、ガーリチ・ヴォルィーニ領を、父ロマンと同じく一手に収めた。
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