モンゴル王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/05 23:59 UTC 版)
「ファールス (イラン)」の記事における「モンゴル王朝」の解説
モンゴルの侵入後、イランにはイルハン朝(フレグ・ウルス)が建国され、それまでファールス地方を支配してたサルグル朝は1285年にイルハン朝に組み込まれた。オルジェイトゥ・ハンの時代(在位:1304年 - 1316年)、イルハン朝の王領(インジュー)を管理するシャラフ・アッディーン・マフムードシャーがファールスを本拠に独立をした(インジュー朝)。1336年、彼はアルパ・ケウン(在位:1335年 - 1336年)の命により処刑されたが、彼の4人の息子たちはチュパン家(スルドス部)のアミールたちと協力したり、争ったりしながら、1353年までファールスを支配し続けた。この年、イラン中央部のヤズドを支配するムザッファル朝のムハンマドにファールスの中心地シーラーズを占領され、続いて1357年にイスファハーンを攻略されたことで、インジュー朝は滅亡した。 この時代、ペルシア文学を代表するサアディー、ハーフィズの二大詩人は共にファールスの文化的な中心地シーラーズに居住して、それぞれ13世紀と14世紀に現在でも愛誦される作品を残した。また、インジュー朝の支配下で11世紀のイランの大詩人フェルドウスィー作の大叙事詩『シャー・ナーメ』のミニアチュール入りの写本が1330年代にシーラーズで製作されている。このミニアチュールは『集史』のミニアチュールとは技法も作風も違うために、シーラーズ派として区別される。
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