モンゴルの征服と中世後期のクリミア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:47 UTC 版)
「クリミアの歴史」の記事における「モンゴルの征服と中世後期のクリミア」の解説
「モンゴルのルーシ侵攻」および「ジョチ・ウルス」も参照 キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。1238年夏、チンギス・カンの孫バトゥ率いるモンゴル軍はクリミアを荒らし、1240年にはキエフを破壊した。 同じ13世紀には、イタリア半島を本拠地とするジェノヴァ共和国が、ライバルのヴェネツィア共和国がクリミア南端の黒海沿岸に整備した港を奪い取り、チェンバロ(現在のバラクラヴァ)、ソルダイア(スダク)、チェルコ(ケルチ)、カッファ(フェオドシヤ)などを自ら建設した。 1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルスのテュルク=モンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。 今日この半島の名称として用いられるクリミア(英語: Crimea, フランス語: Crimée)、クリム(ドイツ語: Krim)、クルィム(ロシア語: Крым, ウクライナ語: Крим)は、テュルク系言語の「クルム」(クリミア・タタール語: Qırım, トルコ語: Kırım)に由来し、ジョチ・ウルス時代にクリミアの中心都市となった内陸の町ソルハット(現在のスタールイ・クルイム)の別名から半島全体の呼称になった。 1346年、モンゴル軍がジェノヴァ支配下のカッファ(フェオドシヤ)包囲中に、疫病で死んだ兵士の死体を城壁内に投げ込んだことが、14世紀ヨーロッパを席巻したペスト大流行の原因とする説がある。 14世紀ごろ、東ローマ帝国系の国家であるテオドロ公国が、クリミア半島の南西部で独立した。首都はマングプ。後にオスマン帝国に滅ぼされるまで、東ローマ帝国の命脈を保った。
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