分領制時代以前のルーシ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 01:38 UTC 版)
「キエフ大公国の分裂」の記事における「分領制時代以前のルーシ」の解説
「ルーシ内戦 (1015年-1019年)」も参照 1132年以前にも、キエフ大公国の統一性を危うくする事変は生じていた。11世紀初めのキエフ大公であるウラジーミル(ウラジーミル・スヴャトイ)は自身の12人の子をルーシ各地の主要都市に配置し、キエフ大公国を統治した。しかし1015年にウラジーミルが死ぬと、ノヴゴロドを治めていたヤロスラフと、トゥーロフを領有するスヴャトポルク、トムタラカニ(ru)のムスチスラフ(ru)ら息子たちによる政権闘争が勃発する。最終的に、この闘争はヤロスラフの勝利(1019年スヴャトポルク没、1036年ムスチスラフ没)で終わるが、この時期に、ヤロスラフの兄弟の一人であるイジャスラフの子孫が統治・継承するポロツク公国が独立路線を採り、キエフ大公となったヤロスラフの支配下を離れた。以降、ポロツク公国は他の地域の公国同様、いくつかの分領公国を生みながらも、モンゴルのルーシ侵攻以降のリトアニアの拡張まで、イジャスラフの子孫(ポロツク・イジャスラフ家(ru))による統治が行われた。なお、ルーシの年代記(レートピシ)は、ポロツク・イジャスラフ家の諸公を「ログヴォロド(ru)の子孫」と記している。ポロツク公国は、ブリャチスラフ、フセスラフと親子間で公位を継承しながら、ヤロスラフとの闘争を続け、ポロツク公国の自立性を高めていった。 1054年にヤロスラフが死亡すると、キエフ大公国は再びその息子たちによって分割相続された。すなわち、最年長のイジャスラフがキエフ、ノヴゴロド、トゥーロフを、スヴャトスラフがチェルニゴフ、リャザン、ムーロム、トムタラカニを、フセヴォロドがペレヤスラヴリ、ロストフ、スーズダリを、ヴャチェスラフがスモレンスクを、イーゴリがヴォルィーニをそれぞれ相続した。彼らは各地を領有する公(クニャージ)であり、公のうちキエフを領有するものは大公(ヴェリーキー・クニャージ)の称号を冠した。これらの公位は、当時の継承法(ru)(順番制、年長順番制)に従って、年功序列に従って継承された。これは、仮に誰かが死亡した場合、その年下の者がその公位を継承し、有していた公位はさらに年下の者に譲渡する、という、一族間での異動を行うものだった。この継承法は、リューリク朝内のある系統による領土の占有、独立を防いだが、一方で、親子間での継承も行われたため、叔父・甥間の相続争いや、継承権を得られない者(イズゴイ)も生み出した。 「ルーシ内戦 (1094年 - 1097年)」および「ルーシ内戦 (1097年 - 1100年)」も参照 1097年、公の一人ウラジーミル(ウラジーミル・モノマフ)によって、リューベチ諸公会議が行われた。この諸公会議は、同年まで行われた諸公間の継承戦争を終結させ、諸公の所領を再確認すると共に、その所領を、世襲領(ヴォチナ(ru))として子孫に継承させていくことを決定したものであった。リューベチ諸公会議の決定事項は、結果的にはキエフ大公国の政治的分裂の始まりをも意味し、各地に独立した公国が生まれる一因となった。ただし、キエフ大公位に就いたウラジーミル・モノマフの統治期(1113年 - 1125年)、その息子ムスチスラフ・ヴェリーキーの統治期(1125年 - 1132年)は、キエフ大公国は安定した時代となった。 「ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」も参照 しかし、1132年のムスチスラフ・ヴェリーキーの死後、諸公を巻き込む権力闘争が再び行われるようになる。『ノヴゴロド第一年代記』は、1134年の項において、「ルーシの全ての地が分裂した」と記している。例えば12世紀半ばには、ムスチスラフの子イジャスラフと、ムスチスラフの弟ユーリー(ユーリー・ドルゴルーキー)との間で、キエフ大公位をめぐる権力闘争が繰り広げられた。ムスチスラフ以降、長期的に政権を保ったキエフ大公は存在せず、同時に、ルーシ各地の諸公国内での独自の統治、継承が行われていった。
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