分領制時代の統一性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 01:38 UTC 版)
「キエフ大公国の分裂」の記事における「分領制時代の統一性」の解説
キエフ大公国領域(ルーシ)が政権的に分裂し、諸公国が独立した時代であったが、依然としてルーシの地を統一的なものとみなす概念が、以下の事象において存続していた。 キエフとキエフ大公位分領制時代もキエフは「長老の任ぜられる都市」「母なる都市(ru)」と称された。また、史料において、キエフの統治者を「全ルーシの公」と記したものがある。キエフを中心とするキエフ公国(あるいはキエフ国 / キエフスカヤ・ゼムリャー)はいずれかの系統の世襲領となることはなく、リューリク朝一族全体の遺産とみなされていた。 公の血統分領制時代を含むキエフ・ルーシ期を通して、諸公国の統治者である公(クニャージ。キエフとウラジーミルの統治者は大公:ヴェリーキー・クニャージ)は、リューリク朝出身者のみが就ける地位だった。また、分領制時代以前に比べれば、その意義は減退していたものの、12世紀末から13世紀前半にかけても、軍事的協議の場として諸公会議(ru)が行われていた。例えば、1223年のモンゴル帝国軍の侵入(カルカ河畔の戦い)に対して、キエフ大公、チェルニゴフ公、ガーリチ公らがキエフで対策を協議している。 文化キエフ・ルーシ期は、ルーシ一円が、キエフ府主教(ru)の管轄する単一の管区(ミトロポリヤ(ru))となっていた。ノヴゴロド(ru)、スモレンスク(ru)、ポロツク、スーズダリ(ru)等に下位の管区(エパルヒヤ(ru))がおかれるなど、組織は複雑化していくが、キエフはルーシにおける正教会の中心地と認識されていた。なお、1160年代より、キエフ府主教は全ルーシの府主教の称号も冠している。 また、各公国の住民は、自身をルーシ、自身の言葉(古東スラヴ語)をルーシの言葉と呼び、各公国で編纂された年代記(レートピシ)は、初代キエフ大公の活動とキエフに関する物語から書き始められた。
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