分領制時代の諸公国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 01:38 UTC 版)
「キエフ大公国の分裂」の記事における「分領制時代の諸公国」の解説
「ルーシの諸公国」も参照 12世紀の半ばには、ルーシの地には十数の公国(この時期には、公国に従属する分領公国の概念もあらわれ、研究者により13、15、18等の見解がある)が成立していた。年代記では、各公国の領域はゼムリャーと記されている。これら諸公国は、公(クニャージ)、貴族(ボヤーレ)、あるいは民会(ヴェーチェ)による統治が行われ(各層の政治的発言権は公国によって異なる)、時には武力衝突を含む諸公国間の権力闘争が行われた。また、各公国内で、依然として兄・弟間の相続も見られた、さらに、成人男子全員への分割相続制が行われたことによって、各公国内に分領公国が形成され、さらに細分化されていった。 公国によっては、分領制時代以前に年長順番制による公の移動も行われていたが、分領制時代には、原則的にリューリク朝内の各系統の中での相続が主となった。各系統と相続した公国を図示すると以下のようになる。 リューリク 数代略 ウラジーミル・スヴャトイ イジャスラフ…→ポロツク・イジャスラフ家(ru) - ポロツク公国 ヤロスラフ イジャスラフ…→トゥーロフ・イジャスラフ家(ru) - トゥーロフ公国 ウラジーミル ロスチスラフ…→ガーリチ・ロスチスラフ家(ru)(分領制時代には廃絶) - ガーリチ公国 スヴャトスラフ…→スヴャトスラフ家(ru) - ムーロム公国 オレグ…→オレグ家(ru) - チェルニゴフ公国 フセヴォロド ウラジーミル・モノマフ…→モノマフ家(ru) ムスチスラフ・ヴェリーキー ロスチスラフ…→スモレンスク・ロスチスラフ家(ru) - スモレンスク公国 イジャスラフ…→ヴォルィーニ・イジャスラフ家(ru) - ヴォルィーニ公国 ムスチスラフ ロマン…→ロマン家(ru) - ガーリチ・ヴォルィーニを併せガーリチ・ヴォルィーニ公国 ユーリー・ドルゴルーキー…→ユーリー家(ru) - ウラジーミル大公国 単一の系統間で相続されなかった公国としては(キエフ公国については次節で後述)、ペレヤスラヴリ公国は、モノマフ家から派生した諸系統による争奪戦が行われた。またノヴゴロド公国は、他公国の権力闘争等の時勢を鑑みつつ、外部からノヴゴロド公が招聘されるのが一般的であり、その意味ではルーシ全体と結びついていた。なお、12世紀後半より、ゴロデンという都市を首都とする公国が、年代記に記されており、これをグロドノを首都とする公国とする説があるが、異論もある。
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