モンゴリア戦線(反乱軍右翼)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)
「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「モンゴリア戦線(反乱軍右翼)」の解説
先述したように、モンゴリアではカイドゥの侵攻に対応するために北安王ノムガン率いる軍団が展開しており、この軍団に属するカチウン家当主シンラカルとコルゲン家当主エブゲンがナヤンの挙兵に呼応してノムガン軍を攻撃する予定であった。この計画に対応したのはキプチャク軍団の指揮官で「シリギの乱」以来モンゴリアに駐屯していたトトガクで、トトガクはナヤンからシンラカル・エブゲンに宛てて密かに派遣された使者を捕らえ、ナヤンの叛乱に関する情報を悉く把握した。使者が捕らえられたことを知らず、シンラカルはトトガクとドゥルダカというノムガン配下の二大将軍を宴に招いて謀殺しようとしたが、トトガクはシンラカルの真意を知っていたためにドゥルダカとともに宴に行くことを止め、シンラカルの計画は失敗に終わった。程なくしてシンラカルにクビライの下に訪れよとの命令があり、シンラカルは当初「東道」すなわち本領のカチウン・ウルスよりクビライ・カアンの下へ行こうとした。しかしトトガクは「シンラカルの分地は東方にあり、仮にシンラカルが脱走して叛乱に合流したならば、虎を山に放つようなものだ」と北安王ノムガンに忠告したため、シンラカルは本領に戻ることなく「西道」に進むしかなくなり、「ナヤンの乱」に直接参加することはできなくなった。 また、シンラカルの謀略と前後してコルゲン家のエブゲンがケルレン河方面で挙兵したとの報が届くと、トトガクは他の将軍がクビライの指示を仰いでから出兵しようとしたのに対し、「兵は神速を貴ぶ。叛乱が事実ならば我々は敵の不意を突かなければならない」と語って即日出陣した。トトガク及びオングト部のコルギスは精鋭を率いて七日間疾駆し、トーラ川を渡ってブルカン・カルドゥンでエブゲンの軍と遭遇した。トトガク・コルギス軍がエブゲン軍と対陣した日、気温は暑く強い北風が吹いていたが、コルギスは「天は我々に味方している」と語り、馬に笞うって戦闘に赴き、トトガク・コルギス軍はエブゲン軍を大いに撃ち破った。エブゲンは配下の兵の大半を殺され、僅かに数騎を率いて逃れ去った。 「ナヤンの乱」勃発の翌至元25年(1288年)冬、エブゲンは再び兵を率いて元軍に攻撃を仕掛けたが、不都馬失・忽剌忽・阿塔海らの奮戦によって撃退された。それから程なくしてエブゲンはタタル部出身のダダカルに捕らえられ、同年中にはエブゲンの叛乱は終息したものと見られる。シンラカル・エブゲンらの「ナヤンの乱」呼応に対してほとんどトトガク一人が対応したように見られるのは、ノムガンらモンゴリア駐屯軍の中核がカイドゥの侵攻に対応するために下手に動くことができなかったためと考えられている。
※この「モンゴリア戦線(反乱軍右翼)」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「モンゴリア戦線(反乱軍右翼)」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。
- モンゴリア戦線のページへのリンク