リベリア内戦
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リベリア内戦(リベリアないせん、英: Liberian Civil War)は、西アフリカに位置するリベリア共和国における内戦である。1989年から1996年の第一次リベリア内戦 (First Liberian Civil War) と、更に1999年から2003年の第二次リベリア内戦 (Second Liberian Civil War) の2度、内戦が起きている。第1次内戦の時は、15万人以上の死者を出し、30万人以上の難民を出した。リベリア内戦は、主に政府機関の利権をめぐる争いであるが、民族的な対立の側面もあった。
- 1 リベリア内戦とは
- 2 リベリア内戦の概要
- 3 麻薬
リベリア内戦
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内戦勃発から4年余りを経た1990年9月9日、戦況はドウ率いるリベリア政府側にとって不利になる一方であり、NPFLから分派した、プリンス・ジョンソン率いるリベリア独立国民愛国戦線(INPFL)がついに首都モンロビアに侵攻、敗北は必至となっていた。 側近のハリー・モニバ副大統領など閣僚からも辞任を勧められ、もはやリベリア国内に事態を打開できる要素は存在しなかった。ドウはアメリカが彼の身柄を保証してくれれば、自分はすぐにでも大統領を辞任してリベリア軍内の子飼いの軍人とともに故郷であるグランドゲデ郡へ帰還するとして、モンロビアにあるアメリカ大使館に協力を懇願するが、ドウ政権崩壊はもはや避けられないと見ていたアメリカ政府に断られてしまう。 アメリカの介入が見込めなくなった以上、ドウの最後の頼みは西アフリカ諸国経済共同体傘下の軍事組織で、彼と親交のあるナイジェリアのイブラヒム・ババンギダが大きな影響力を持つ西アフリカ諸国経済共同体監視団(ECOMOG)であった。ドウはイスラエルで訓練を受けていた選りすぐりの護衛90人を連れ、大統領官邸からモンロビア郊外のECOMOGの駐屯地に向かった。そこで彼はINPFLと講和し戦争を終わらせたいとして、ECOMOGの参謀長にジョンソンとの仲介を求めた。要請を受けたECOMOGはINPFLにドウが護衛と共にECOMOGの駐屯地に来ていること、そして彼の主張を伝達した。ジョンソンは自らもドウと同じ考えであり、戦争を終わらせる為今すぐにでもドウと話し合いたいとECOMOGに返答した。しかし、これはドウを騙し討ちにするための罠であった。 そんな事を知る由もないドウはジョンソンの回答に満足し、ECOMOGの駐屯地でジョンソンが来るのを待った。一方ジョンソンはドウを捕らえる為、20人程の兵士をECOMOGの駐屯地に送り込んだ。ECOMOGの駐屯地には武器を持って入る事は禁止されていたため、ジープに武器を隠して駐屯地に侵入してきたINPFL兵たちは、まず司令部でドウの護衛を皆殺しにし(彼らはECOMOGの指示に素直に従い、武器を駐屯地の入り口に置いていた為、丸腰であった。なお、ECOMOGの兵士は無事だった)、司令部内部へ乗り込んだ。ECOMOGの司令官であったガーナ軍のアーノルド・クアイノー将軍はこの事態にも抵抗することなくドウをINPFLにあっさり引き渡した。実際には、ECOMOGでは上記の理由からコートジボワールとブルキナファソがドウ打倒のためにテーラーを支援するなど、ドウの期待に反して一致した行動をとれていなかったのである。
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