ドウ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:29 UTC 版)
ドウの政治体制の下、リベリアの港湾はアメリカ、カナダ、欧州各国など諸国に対し開かれ、外貨を獲得すると同時に多くの海外投資を集め、またタックス・ヘイヴンとしての評判をも得るに至った。また、独自の通貨も発行したが、ドウ政権崩壊後はドウの出身である北部など一部の地域を除き通貨としての価値は認められていない。 ドウ政権下では統治機溝として人民救済評議会(PRC、後のリベリア国民民主党(NDPL))が設置され、ドウは評議会議長(事実上の大統領)になった。憲法は停止されたものの暫定的な措置であるとし、1985年までに文民統治に復帰する事を約束した。その後、翌1981年8月にドウは自身の暗殺を謀ったとしてウェー・シェン、トウら軍人5人を処刑している。 1985年10月15日の総選挙では、9つの野党のうち3党しか参加を許されず、かつ投票箱が海に捨てられる等大規模な不正が横行した。ドウは51%の支持を獲得、与党NDPLも上院で全26議席中21議席、下院では全64議席中51議席を得て圧勝したが、これに対して野党の議員の多くが議会への参加をボイコットした。 選挙直後の1985年11月12日、クーデターの同志であったが上記のように粛正など独裁傾向を強めるドウと対立、亡命していたギオ族(英語版)出身のトーマス・クィウォンパがマノ族らと共に打倒ドウを唱えてシエラレオネより潜入、クーデターを起こしたが失敗し、11月15日にクィウォンパらクーデター関係者は処刑された。報復としてドウは自分の部族であるクラン族のみで結成したリベリア軍(AFL)をギオ族とマノ族が住む地域に派兵し、徹底した破壊と虐殺を行った。モンロビアに連行されたギオ族とマノ族の人々の中には、ドウが所有していた5階建ての高級マンションで彼がペットとして飼っている2匹のライオンに餌として与えられた者もいるという。 翌年、1986年1月6日にドウはリベリア大統領に就任。その後、ドウは野党の議員の新聞の発行停止、政治活動の禁止など圧政を敷いた。 ドウはアメリカの後ろ盾を得ていたものの、周辺諸国やチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)などによる武装介入が続き、やがて内戦へと発展した(第一次リベリア内戦)。
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