出生から政権獲得まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:29 UTC 版)
「サミュエル・ドウ」の記事における「出生から政権獲得まで」の解説
リベリア内陸部グランドゲデ郡のタゾン(英語版)で農家の息子として生まれる。少年期に初等教育を受けたものの、成績を収められず1969年には高校を中退し陸軍に入隊する。1979年10月には下士官に昇進し、アメリカ陸軍から派遣されたグリーンベレー出身者による訓練も受けた。彼の出身部族であるクラン族(英語版)(Krahn)はリベリア国土に古くから定住していた部族の一つであったが、当時のリベリアは19世紀にアメリコ・ライベリアンが支配しており、先住民系のリベリア国民は多数派であるにもかかわらず長い間政治的な抑圧を受けていた。ドウが軍曹に昇進した時には、後に彼の命を奪うことになるプリンス・ジョンソンが上官だった。 1980年4月12日、上級軍曹に昇進していたドウは他のリベリア部族出身の兵士トーマス・クィウォンパ、トーマス・ウェー・シェン(英語版)、ハリソン・ダン、ネルソン・トウら同志と共にクーデターを敢行、アメリコ・ライベリアン出身の大統領ウィリアム・R・トルバートを殺害し、ホイッグ党と同党の主な支持基盤だったアメリコ・ライベリアンによる支配を終わらせた。ドウが起こしたクーデターにより、トルバートと26人の支持者が戦闘で死亡、さらに10日後には首都モンロビアの海岸で大統領の兄で上院仮議長だったフランク・トルバート(英語版)、下院議長のリチャード・アブロム・ヘンリーズ(英語版)、セシル・デニス(英語版)外務大臣など政権幹部13人を銃殺刑で殺害した。なお、当時のコートジボワール大統領のフェリックス・ウフェ=ボワニと、ブルキナファソ大統領のブレーズ・コンパオレはトルバートと親戚関係にあったため、ドウ政権と両国との関係は著しく悪化することになった。
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