出生から日銀退職までとは? わかりやすく解説

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出生から日銀退職まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 09:21 UTC 版)

片岡直輝」の記事における「出生から日銀退職まで」の解説

1856年安政3年7月3日、父・孫五郎直英と母・信子長男として土佐国高岡郡半山永野村現高知県津野町永野)で誕生する生家近隣に家のない寂し一軒家であったが、直輝や弟・直温が幼少時代過ごした時期幕末であり、その立地条件から勤王志士秘密の集会所として、また潜伏場所としてたびたび利用された。その当時、直輝や直温はまだ少年であり、あまり深く関わることはなかったが、父・直英は勤王傾倒していたため、私財投じて支援した結果家計火の車であった。さらに追い打ちをかけるように、その父が病没してしまい多大な借金だけが残され、母・信子借金返すため昼夜問わず働き続け、また直温は東林寺預けられ兄弟別れることとなった。直輝は勉学励み14歳時に十数人の弟子取り、わずかの報酬ながら家計助けたその後信子が直温を寺より引き取ることとなり、直温に信子と家のことを頼み1873年明治6年5月16歳時に上京する上京後親族寄食し、まず電信学校入学したが志に合わずその後1874年明治7年)に海軍主計学校入学することとなる(両校とも就学中は学費必要なかった)。随行員や軍艦員外乗船などを経験し1878年明治11年)、海軍主計学校卒業とともに海軍主計副として海軍入りする。主計課長心得、中主計経て1886年明治19年)、西郷従道海相欧米各国派遣されるにあたり、その随行員として抜擢されたことに合わせ海軍主計となる。帰国後は、海相外遊中の残務取り扱いなどを代行フランスへ派遣、また「厳島主計長兼任など尽力したが、1891年明治24年9月、その任を解かれ武官時代終わりを告げることとなった。なお退役1906年明治39年7月1日である。 海軍去った後の1892年明治25年7月、直輝と同郷であった河野敏鎌内務大臣推挙を受け秘書官任命され文官時代始まった同年9月河野内相文部大臣になると再び文相秘書官となるが、1893年明治26年3月文相井上毅親任されるに際して依願免官となると内務省復帰し大阪書記官任命される上水道敷設大阪港建設下水道整備などを指揮し才腕振るったが、1896年明治29年4月内務省去り文時代終える。 そして同年6月日本銀行入行する。まずは見習いとして銀行実務経験し同年10月大阪支店心得に、そして1897年明治30年2月大阪支店長に抜擢をされる。当時日銀大阪支店といえば関西財界支配する力があり、1899年明治32年3月日本銀行支配役を免ぜられるまでの日銀時代に、後の実業家としての地盤築かれることとなる。

※この「出生から日銀退職まで」の解説は、「片岡直輝」の解説の一部です。
「出生から日銀退職まで」を含む「片岡直輝」の記事については、「片岡直輝」の概要を参照ください。

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