出生から東京大空襲における負傷
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「深沢幸雄」の記事における「出生から東京大空襲における負傷」の解説
1924年(大正13年)7月1日、山梨県南巨摩郡増穂町平林(現・富士川町平林)に生まれる。幸雄は深沢家の次男。父親が朝鮮総督府の官吏であったため、生後すぐに朝鮮半島に渡った。 1931年(昭和6年)に忠北堤川郡立小学校へ入学、1937年(昭和12年)に忠南大田中学校へ入学し、中学時代までを日本統治下の朝鮮・堤川(現在の大韓民国・忠清北道堤川市)で過ごす。中学時代には友人の家で『世界美術全集』を目にし、美術教師の影響を受け油彩画をはじめる。さらに大田市の鶏竜山窯を見学し、陶芸にも関心を持ったという。 1942年(昭和17年)に東京美術学校(現東京藝術大学)へ入学するが、父親の条件で油彩画ではなく工芸科彫金部予科を先行する。美術学校時代は葛飾区堀切に下宿し、デッサンに専念する。西洋の画家ではムンクやゴッホ、レンブラント、日本人の画家では中川一政の水墨画に傾倒していたという。1949年(昭和24年)に彫金部を卒業した。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では駒込において被災し、右膝を負傷する。翌年4月6日には山梨県甲府市の第63部隊に入隊し、重機関銃中隊に配属される。同年8月の終戦後は復学し、石井鶴三の指導によりデッサンに専念する。1947年(昭和22年)には詩人の川路柳虹の仲介で学生結婚する。
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