出生から武田家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:16 UTC 版)
父の芦田信守は、守護代の大井氏や諏訪頼重に臣属していたが、後に武田信玄に仕えた。 信蕃は当初から信玄に信濃国先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き武田勝頼に仕えた。永禄11年(1568年)12月、武田氏の駿河侵攻で駿府に乱入した軍勢の中に信蕃の名も見える。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いにも参陣し、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城の守将を務めた父・芦田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。 長篠の戦いで武田軍が大敗し徳川家康率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死去する。信蕃が守将となり、弟の信幸と共に籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き兵糧攻めにすることしかできなかった。実に半年にも渡った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れと、長篠の戦いで敗れた主君の武田勝頼の「甲斐に引き挙げろ」との命令により、徳川方の「全員の助命を条件」に開城するという条件で、高天神城に退去した。退去の際は雨が降っており、信蕃は「開城は延期してほしい」と家康に申し出た。理由としては、「蓑(みの)や笠を身に付けて城を退くようでは敗残の兵のようで見苦しい、好天の日にお願いしたい」と申し出て、晴天となった3日後に引き揚げた。明け渡しに立ち会った家康の重臣大久保忠世が場内に入ると、整然とした場内はきちんと清掃されていた。大久保の報告を受けた家康も感心したと伝えられている。後に駿河田中城の城将となった。
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