出生から柔道家時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 19:59 UTC 版)
大阪府大阪市生野区で在日韓国人4世として生まれる。父親の影響で3歳より柔道を始める。清風高校から近畿大学へ入学。 大学卒業後、韓国へと帰国。市役所に勤務しながら韓国代表としてオリンピック出場を目指した。しかし、僑胞への差別は激しく、韓国代表となることをあきらめ、2001年9月渡日、日本国籍を取得し現在の本名・秋山成勲に改名する。平成管財へ入社し、柔道81kg級で活動した。 日本に帰化し、釜山アジア大会に出場・優勝した際、韓国のマスコミに対し「柔道のために日本国籍を取りはしたが、私は永遠に韓国人だ。私を声援してくれた同胞たちに感謝する」とインタビューに答え、かえって韓国のマスコミの批判・バッシングを受ける結果となった。 2003年には地元大阪で開催された世界選手権に出場した。2回戦でフランスのセドリク・クラベリを背負投、3回戦でモンゴルのダムディンスレン・ニャムフーを払腰、準々決勝でトルコのイラクリ・ウズナゼを技ありでそれぞれ破るものの、対戦した3選手全員から「柔道衣が滑る」という抗議を受けた。そのため準決勝からは新しい柔道衣に着替えて出場することになった(詳細は後述)。その準決勝ではドイツのフロリアン・ワナーと対戦して、指導でリードしながら終了6秒前に大外巻込で逆転負けを喫すると、3位決定戦でもポーランドのロベルト・クラフチクに効果で敗れて5位に終わった。なお、大会を放映したフジテレビからは「我流JUDOレボリューション」なるキャッチコピーが付けられた。 2004年4月4日、全日本選抜柔道体重別選手権大会(兼アテネオリンピック代表最終選考会)男子81kg級の準決勝で塘内将彦に優勢負けし、アテネオリンピック代表を逃した。この時柔道着が滑っていたかは定かではないが、これがきっかけとなり5月には平成管財を退社、7月には全日本柔道連盟の強化選手指定を辞退した。
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